妻女山松代招魂社(妻女山頭赤坂山鎮座) 2006.12.31
●妻女山松代招魂社は、清野村史には、「東西十四間五尺七寸、南北二十五間、村の西の方、妻女山の中腹にあり。岩野村に跨(またが)る。」とあります。つまりここは妻女山の頂上ではないわけです。字妻女山であり、地名は赤坂山といいます。その字名をもって地元でも妻女山というようになったため、いつしかここが妻女山といわれるようになってしまいました。
 では、どこが本当の妻女山かというと、これより15分ほど登った土口が見える峠から更に西へ100mほど登った斎場山古墳(円墳)がある標高513mの山なのです。古来より本名を斎場山といいます。妻女山は江戸時代につけられた俗名です。このことは岩野村誌や土口村誌にも記述があります。また、第四次川中島合戦では、上杉謙信が古墳上に床几を敷き本陣としたことで、古来より床几塚、謙信台、両眼塚とも呼ばれています(私有地)。
 西条山という記述は、『甲陽軍鑑』によるものですが、これは斎場山を西条山と誤記したものです。口述筆記の際に本来の漢字を知らずに当て字をしたのでしょう。戦国時代の文書にはよくあることです。地元では西条は、「にしじょう」と読み「さいじょう」と読むことはありません。また、清野氏のこの山を、西条氏が治めたという記録も残ってはいません。松代藩の古文書には、「西条山と記すは誤りなり山も異なり」、と書かれています。西条山とは、松代の南、高遠山からノロシ山までの山一帯を指します。全く別の山です。
 多くの歴史家がここを訪れ、この招魂社を見て妻女山はここかと感慨にふけるのも無理からぬ雰囲気があります、しかし、よく考えるとつじつまの合わないことが多くて混乱するようです。ちょっと「ずく」を出して歴史に詳しい村人に取材したり村誌や郡誌をひもとけば、明らかになったろうにと残念でなりません。

●1874(明治7)年、明治新政府の命により全国各村の詳しい実勢実態調査が「府県町村誌」にまとめられました。雨宮の渡の項で「永禄四年上杉謙信、祭場山の陣より南降し…」、土口村誌には、「斎場山、また祭場山ともいうが古誌にいう西条山は誤り、近俗作となる妻女山は尤(もっと)も非なり」という記述も見られます。「斎場山(妻女山)は、笹崎山と赤坂山のふたつの尾根を持つ」という記述もあります。また、「この山の山麓に岩野・清野両村あり、岩野は斎野(いわいの)、清野の古訓は須賀野(菅野・すがの)共に祭祀潔斎に因あり」と記されています。このことは、私が父から聞いたことと一致していますし、『清野小学校開校百年誌』の記述とも一致します。但し気を付けなければならないのは、ここでいう妻女山とは、招魂社のある赤坂山のことではなく、妻女山古墳のある513mの斎場山のことであるということです。
 また、古い記録には標高546mと記されているものもありますが、これは地元で陣馬平(上杉謙信陣城跡)といい伝えている天城山へ続く尾根の高原にある小さなコブで、とても山頂と呼べるような場所ではありませんし、確かに招魂社と同じ字妻女山の最高地点ですが、地元でもそこを妻女山の頂と呼ぶ人はいません。また現在の地形図を見ても明らかなように530mあまりが正しい標高です。これは大正時代に陸軍参謀本部測量部が誤った測量と記載をした地形図がそのまま伝えられたもので、完全な間違いです。
 妻女山は、古墳時代に「斎場山」→その後江戸時代後期に松代藩により「妻女山」(『真武内伝』・松代藩『天保国絵図[てんぽうくにえず]信濃国』)となり、藩が改名した「妻女山」に対抗して民衆が「祭場山」(土口村誌)とし、さらにその名称が赤坂山に移動したということです。本来「さいじょうざん」ですが「さいじょざん」では読みが違ってしまいます。「祭場山」ならば読みは同じですし、意味も似通っています。斎場とは「いつきなる場」ということであり、祭祀を執り行う場所という意味だからです。妻女では全く意味が変わります。この妻女は、麓にある会津比売神社の伝説からとったものです。詳しくは、「會津比賣神社御由緒」を参照。

●これは推測ですが、妻女山の赤坂山への名称移動には、1869(明治2年)の招魂社の建立が関係しているのではないかと考えます。岩野と清野の村民にとって赤坂山を改称する必然性やメリットはなかったと思います。しかし招魂社をここに建てた松代藩にとっては、「赤坂山招魂社」ではなんとも格好がつかないと考えたのではないでしょうか。そこで松代藩が命名した「妻女山」の名をとって「妻女山頭鎮座松代招魂社」としたのではないかと思うのです。確かに字は清野側が妻女山、岩野側が妻女ですが、妻女山の山頂ではないのです。「ここ妻女山を赤坂山ともいう」という説明もありますが、これは逆で、赤坂山を妻女山と改称してしまったのです。字名は妻女山ですが、地名は赤坂山なのです。ただ、地元でも現在赤坂山とは呼ばずに妻女山で定着しています。その代わりに本来の妻女山(513m)を本名の斎場山と呼ぶようにすべきだと私は考えています。
 松代は、帝鑑間詰譜代大名でしたが、幕府からは真田の子孫として恐れられたためか度重なる手伝普請などの賦役により信之の遺産を使い果たしました。そのためか、幕府隠密への警戒感が高かったともいわれ、いわゆる松代のま抜け言葉を生んだともいわれています。(例:行きます→行きす・やりましょう→やりしょ)また山国特有の頑固で保守的な気風がありますが、反面官圧に弱いという側面もあります。このように行政が勝手に地名や山名を改称してしまうことは、残念ながらよくあることです。私がよく登る山梨の山でも、行政が勝手に峠の名前を違う尾根に持って行ってしまい、地名が混乱している例があります。また、峠道を造った折りに県知事が勝手に峠の名前を付けて、さもそこが歴史的地名であるかのような誤解を招いている例もあります。町名もしかり。改称によって、歴史的事実や伝承が変えられてしまったり、途絶えてしまうことがあるのです。銀座一丁目などという名称には、多くの文化人が憤っています。また、近年の通俗的な団地の名前も、あまりにも歴史を無視しており、通俗的です。こういった行政や大手ディベロッパーの横暴は、歴史の真実や住民の歴史までねじ曲げ、葬り去ってしまうことがあることを肝に銘じなければならないと思います。その点、土口の妻女台団地は、秀逸のネーミングだと思います。現妻女山しか知らない人には、なぜ土口に妻女山?と思うでしょう。妻女山改称について悪意があったとは考えられませんが、以降の歴史検証に多大な誤解を招いたことは大問題です。いずれにしてもこの件の改称当時の事情をご存じの方が、岩野には既におられません。それが残念です。ただ親や祖父からこの話を聞いている人は何人もいます。

■本当の妻女山については数多くの古文書や古地図を紐解いて研究した、特集「妻女山の位置と名称について」のページをお読みください。

●この招魂社は、松代藩(藩主真田幸民)*が1868(明治元)年の戊辰戦争で明治政府軍として、幕軍と戦ったときの戦没者を祭った社です。瓦には真田の六文銭の紋が記されています。その功績を受けて、新政府から3万石を与えられ、松代藩からは多くの人が新政府に重用されました。この平地は、招魂社を建てるときに造成したもので、それ以前は松代藩の射撃練習場ではなかったかと推察されます。南面の山からは、多くの縦断が出土しています。招魂社は拝殿がさきに建ち、後背の本殿は後に建てられたといいます。本殿の後ろには52の戦没者の霊を弔う石碑が並んでいます。裏の石垣を境に、岩野側(西側)を字妻女・字山裏(山浦)と呼びます。ここを赤坂山ではなく妻女山と呼ぶようになったのは、そんな理由から招魂社建立以降ではないかと推察されます。本殿の土塁の中は官地、周りは真田の領地(尾根の狭い範囲)で、ある方が管理をしていましたが、管理を村に移管して、現在は長野市の妻女山公園となっています。1871(明治5年)に招魂社祭を4月24・25日と執行と決まりました。1881(明治14年)には、一町六カ村立妻女山招魂社となりました。春の桜、秋の紅葉は見事です。また夕日の景勝地ともなっています。

●実は、戊辰戦争当時、松代藩は日本有数の軍事力を持っていました。1872(明治5)年、上田城の東京鎮台第2分営より乃木希典少佐が、廃城の松代城と武器を受領すべく来迎。その時、「松代藩は大砲のみにて53門の多きに達し、他の10藩全部の兵器を合するといえども松代藩の足元にも及ばず」と言ったとされています。真田幸民と佐久間象山が最新の洋式装備化を進めたわけです(大砲の試し打ちで倉科の生萱から試射した弾が、一重山を超えて天領満照寺まで飛んで大騒動になりました。)。しかし、戊辰戦争への参加で財政は悪化。財政再建のため、1869(明治2)年、「商法社」という会社を設立、生糸・蚕種の生産・販売、午札(紙幣)の発行を始めましたが失敗。その穴埋めをすべく増税したために(午札の交換比率の不当を訴えて)民衆が決起し、「松代騒動(午札騒動)」が勃発。農民数千人が松代城下に迫り、約200戸を焼きました。これにより幸民も謹慎処分になりました。その後伯爵になっています。遡って寛保2年(1742)の大洪水「戌の満水」の後の大規模な瀬直し(領民を守るためではなく、松代城を守るため)では、幕府に城普請の許可を得るとともに、一万両の拝借金を許されました。そのことが松代藩の財政を逼迫させ、領民に多大な辛苦を強いることになりました。
 * 10代藩主・伊予宇和島藩主伊達宗城次男・養子・1869(明治2)年6月24日松代藩知事就任・1871(明治4)年11月松代県解体、長野県の誕生により解任、真田氏の松代支配は終わったのです。

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