鞍骨山(鞍掛山) その1 2006.12.31
 12月31日(日)、信州は長野市松代町清野と千曲市倉科の境にある、第四次川中島合戦の武田方の清野氏の要害、「鞍骨城(くらぼねじょう)」のある鞍骨山へ登りました。去年は豪雪で断念せざるを得なかった山です。鞍骨山は、また鞍掛山ともいいます。
 鞍骨城へは、妻女山の麓から妻女山、陣馬平、天城山(てしろやま)、二本松峠を経て登りましたが、冬季以外は月の輪熊の生息地であり、猪、ニホンカモシカもおり、夏場はエビガライチゴやノイバラなどトゲのある植物が密集し、オオスズメバチが飛び回るのでとても登れません。城郭の石垣やガレバはマムシの巣になっていることも充分に考えられます。安全に登れるのは、ハチのいない熊が冬眠した冬しかないのです。


 そんなわけで大晦日の登山を決行したのですが、妻女山へ登ってみると大勢のハンターがいるではありませんか! なんですかと聞くと大がかりな猪の駆除が行われるとのこと。間違われて撃たれたら洒落になりません。私達の経路を説明し、ハンター仲間に無線で伝えてもらいました。大きな声を出しながら登ってくれとのことで、大声を出したり笛を吹いたりと大騒ぎの山登りになりました。
 しかし、深い空堀をいくつか越えて行った先に我々を待っていたのは、高さ50mはあろうかという天空にそびえる鞍骨城の雄姿でした。山頂からは善光寺平や更級の里が一望の下に見え、風もなく穏やかで爽快な気分でした。

■星印
のある写真をクリックすると拡大します。

■今回のコース
妻女山登山口--上杉謙信槍尻之泉--妻女山(赤坂山)招魂社(411m)--林道--陣馬平--林道--天城山登山道(杏の里ハイキングコース)--天城山(694.6m)--二本松峠(清野・倉科分岐)--高圧線鉄塔--鞍骨城(798m)--高圧線鉄塔--二本松峠(清野・倉科分岐)--天城山南面巻き道--天城山--明聖砦鞍部--林道--陣馬平--林道--妻女山(赤坂山)招魂社--妻女山登山口
■全行程:約4時間35分・休憩を含む 気温:-2度〜3度 標高差:約446m
■登山地図にないコースもあります。★二万五千分の一地形図必須・軍手は必携です。季節によっては、熊・猪・スズメバチ・マムシ対策も。登る季節は、晩秋から早春がベストです。冬季、積雪が多いときはスノーシューが必要になります。
★狩猟期は、ハンターが入ります。
●今回の歴史的記述には、岩野・清野・土口の伝承等と、私の母校でもある『清野小学校開校百年誌』等を参考にしています。
■妻女山については、★妻女山の位置と名称についての特集ページをご覧ください。
その他、
★妻女山の改称問題についての考察 ★本当の妻女山は、ここだ!も合わせてどうぞ。



●8:57 妻女山登山口を出発。冬枯れのため既に上には妻女山(赤坂山)411mの招魂社が見えます。標高差わずか60m。上信越自動車道の下のトンネルをくぐって山道へ。大型車進入禁止です。

●会津比売神社(あいづひめじんじゃ)の裏手にある薬師山トンネルの横を登ります。前方右上の山は、斎場山古墳がある斎場山(旧妻女山)513m。(私有地)

●すぐに「上杉謙信槍尻之泉」。謙信の陣用水といわれます。招魂社までは車で行けますが、凍結しているときはスタッドレスでは不可。チェーンが必須です
 
●招魂社のある山頂までは、わずか15分足らず。春はサクラの名所です。ぜひ歩いて登ってください。

●山頂のすぐ下からは、北アルプスが見えました。
 
●9:09 招魂社。昨年の豪雪が嘘のように雪がありません。★歴史・赤坂山改称問題と妻女山

●1969年のの大河ドラマ「天と地と」の時に建てられた看板。実はこの看板が誤解の元になっています。ここは地元でも妻女山と呼ばれて久しいのですが、本来は「赤坂山」といいます。妻女山はともかく、ここは陣馬平ではありません。また、『甲陽軍鑑』に基づいた頼山陽の『日本外史』の西条山とい記述が話を更にややこしくしています。本来は「斎場山」であり、西条山は、松代町西条にある山塊のことです。また当地では西条は、にしじょうと読み、さいじょうと読むことはありません。明らかに口述筆記による誤記でしょう。
 
●招魂社の先の平地。ここは更に新しく、近年、左へ向かう林道倉科坂線を造った土でできた駐車場です。やはり陣馬平ではありません。地名は左が妻女山、右が妻女ですが、妻女山の山頂ではありません。上の写真の前方左上に見える台状の山の奥が陣馬平です。
駐車中のクルマにハンターがたくさんいました。聞くと猪の駆除だとか。ルートを話し無線で仲間に伝えてもらいました。ハンターは、谷の下から犬で猪を追い出し撃ちます。我々は尾根の稜線を行くので、まあ大丈夫でしょう。

●この林道建設において岩野の責任者であった方の孫にあたる方も、祖父から赤坂山と妻女山の話を聞いているということです。トラクターが普及するようになって、養蚕の桑を運搬するために、馬を牽いて歩けるほどの狭い山道から林道になりました。
 
●9:23 土口が見える長坂峠(東風越)に出ました。右前方に見えるのが斎場山古墳(床几塚・両眼塚)のある斎場山(旧妻女山:512m)です(私有地)。右へ行くと斎場山を巻いて長坂を辿り、御陵願平、土口将軍塚、薬師山を経て笹崎へと下ります。

●私達はここを左へ進みます。右前方には通過する天城山(てしろやま)が見えます。左前方に陣馬平。

●土口側の景色。今は薮ですが、養蚕が盛んな頃は、麓からこの辺りまで桑畑が続いていました。

●峠から陣馬平までは、こう配の緩やかな平地が続きます。地名を天上といいます。この辺りも40年ぐらい前までは桑畑でした。古い桃の木もあります
 
●道は緩くS字を切って行きます。昔は、わだち1本ほどの狭い山道があるだけでした。林道もこの先ましかありませんでした。左の崖上の少し奥に石垣と積石塚古墳一基があります。

●熊猪出没注意の看板。薮に入る山菜採りやきのこ狩りでは、遭遇する可能性もある山です。この左手が「陣馬平(じんばだいら)」。
 
●9:37 ここが「陣馬平」。標高が500〜530mのあたりです。100m四方以上の平地があります。『甲陽軍鑑』の編者といわれる小幡景憲彩色の『河中島合戰圖』(狩野文庫)には、この辺りに七棟の陣小屋が描かれています。

●右下に下りる道は個人所有のものです。林道はこの先で小さなコブを越えます(写真、林道の一番高いところ)。大正元年測量の5万分1地形図では、このコブではなく、ひとつ上の写真の右側を妻女山(546m)としているようにも見えます。しかし、実際は写真のように山頂と呼べるような場所ではありません。やはり単なる測量の標準点なのでしょう。昭和35年の改訂版では、消されています。
 
●陣馬平全景。かなり広い平地です。北側には東西に古い石垣があります。積み石塚古墳群があったのを破壊して陣小屋を造営したのでしょうか。冬枯れの季節に来ないと、ここが平地であることは分かりません。松代藩誌『眞武内傳附録』には、千ケ窪の上の方に柴田(新発田)道寿軒とあります。これは陣場平のことかもしれません。

●小さなコブの上から振り返ったところ。右下が陣馬平。ここが大正元年の測量で、妻女山の山頂とされたかもしれない場所なんですが…。斎場山は、樹間から北西に見えます。
 
●同じ場所から右前方に天城山、左手前に594mの小ピークが見えます。やはり、ここが妻女山の頂上にはとても見えません。大正時代の地図では、文字尻は斎場山古墳の前にあるので、往古の言い伝え通りそちらを指していると思われます。

●コブを下った鞍部で左から清野の宮村、会田の千人窪から登ってくる昔からの山道が合わさります。大村の林正寺へ下りる道などもあり、村の重要交通路でした。また、土口から赤坂山の清野側へ抜ける道は、斎場越え、土口坂と称し、笹崎から斎場山への尾根は「長尾根」といい、その道は「長坂(清野坂・清野道)」と呼ばれました。

●9:47 右へ林道と、正面は、あんずの里ハイキングコース(天城山登山道入口)。ここにもハンターの車が。この林道は、先のヘリコプターが衝突墜落した事故も起きた山火事の後に、更埴市(現千曲市)の要請で、山火事の消火のために地権者の無償提供で作られたものです。昔は細い山道でした。

●尾根の踏み跡を辿ります。これは昔からある天城山への山道です。
 
●ノイバラやエビガライチゴが多いので、真夏はとても通れない道です。オオスズメバチに襲われたこともあります。

●右手、西方に北アルプスが見えました。眼下は雨宮、土口です★雨宮・土口地名同定
 
●やがてか細い山道を、小さなピークを巻くように登ります。30m程下には、分かれた林道が見えます。その少し下には堂平。

●9:58 清野側が見える尾根に乗りました。昔は子供たちだけでこの辺りまで遊びに来たものです。
 
●尾根を振り返ったところ。ヤセ尾根で、清野側には大きな岩も見えます。ここを大軍が通るのは困難。おそらく堂平に下りて北進したのでしょう。

●目指す「鞍骨城」が姿を現しました。鞍骨山は、その馬の鞍の形のような姿からの命名とされますが、別名「鞍掛山」ともいいます。
 
●ヤセ尾根を進みます。すぐに広くなり…。

●10:04 天城山と鞍骨城への分岐。今回は天城山も登ります。左の巻き道は、途中非常に細くなっているところがあり注意が必要です。

●「あんずの里ハイキングコース」の古い看板。英語の表記もあります。バックパックやヒッチハイクが盛んな時代だったので外国の人も訪れたのでしょうか。

●天城山へは直登します。特に道はありません。
 
●4、5分で山頂直下の曲輪(くるわ)というか、古墳の墳丘裾に着きます。

●10:09 天城山頂。「坂山古墳」といわれる円墳があります。渡来人のものとも、この地の豪族のものともいわれています。
 
天城城(てしろじょう)を造るときに壊したのか、盗掘によるものか分かりませんが、こんな状態です。

●ここで小休止。チョコレートなどを食べました。
『信濃宝鑑』中巻 「天城墟」
「土口村大字土口の東南手城山腹にありて、塹湟土塁の形跡を存せり。伝え云ふ、往昔の領主大伝陸奥守貞直の居城たりしが、更級郡山田の領主月影判官の為に攻略せられたりと云う。」
 
●10:16 鞍骨山へ向かい南東へ尾根を下ります。すぐに浅い堀切があります。

●堀切から南を見たところ。
 
●明瞭な踏み跡はありませんが、尾根の稜線を下ります。

●すぐに左から巻き道が合流します。なんだか深山に不似合いな派手な看板。エンバイロメンタル・グラフィックスやインフォデザインも最近は日本でもかなり良くはなっていますが…。山梨県が最近建てている樹脂加工した木製の看板は秀逸です。参考にして欲しいですね。

●振り返ったところ。右手が天城山の巻き道です。

●少し進んで振り返るとこんな看板が。正面に天城山(坂山古墳)の表記がないのが寂しいですね。
 
●南には鷲尾城のあった倉科尾根が見えます。この辺りで親戚のものが秋に大きな月の輪熊と遭遇しています。

●更に進み振り返ると樹木を利用した味のある標識が。ここにも天城山の表記はありませんでした。右・妻女山・岩野駅、左・倉科将軍塚・鷲尾城址。
 
●木漏れ日のやさしい尾根を進みます。鞍骨山は、ここから1キロ足らずなんですが、まだ見えません。

●10:23 二本松峠(坂山峠)。まっすぐ鏡台山6km、左へ清野1.5km、右へあんずの里・倉科1km、森4kmの表示があります。
 
●これも堀切ですが、峠道が横断しています。昔は、清野村大村から倉科へ通じるこの道は、「倉科坂(大村越え)」と呼ばれ重要な交通路でした

●峠にある地蔵。振り袖を着た娘のようにも見えますが、分かりません。割れてしまったようでテープで縛ってあります。空の杯がふたつ置いてありました。地元の人がお茶をあげているようです。
 
●植林帯の尾根の稜線を辿ります。人工的な堀切を除けば、尾根道は高低差も少なく歩きやすいコースです。

●天城山(694.6m)から斎場山・川中島方面、北の方向を見たところ。妻女山(戦国当時の赤坂山)は、ここからは見えないことが分かります。海津城は、ずっと右手、茶臼山は左手になります。青い筋は、千曲川。
■「国土地理院の数値地図25000(地図画像)『松代』」をカシミール3Dにて制作。
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