妻女山を望む 2006.1.1

妻女山。まず妻女山といわれている411mの頂は、本当の妻女山ではないということを書かなければなりません。本来は赤坂山といいます。では、本当の妻女山はというと、赤坂山より20分ほど登った標高513mの、妻女山古墳のある頂なのです。本名を斎場山といいます(私有地)。また、古墳上に上杉謙信が床几を置き、本陣としたために床几塚、謙信台などと呼ばれています。ただし、現在は赤坂山が妻女山で通っているので、ここはそのままで、本来の妻女山を古来の通り斎場山と呼ぶのが妥当と思われます。この尾根続きの南方には、武田方の清野氏の要害・鞍骨城、天城城があり、明聖砦や唐崎城もあります。つまり、武田の城塞群のまっただ中ということになります。そこで、妻女山に上杉謙信が陣を構えたことを疑問視する歴史研究家もいるようですが、後背の鞍骨城や天城城は、山城で常に居住していたわけではないので、みな海津城につめていたと考えるのが妥当だと思われます。
第四次川中島合戦の折り、春日城を出た謙信は、兵糧軍を善光寺に置き、自らは氾濫原の川中島を避けて飯山道を南下し、大室と加賀井を結ぶ可候(そろべく)峠を越え、象山の南の多田越え経由で清野から妻女山に布陣。海津城からの狼煙でそれを知った武田信玄は、甲府を出立。地蔵峠越えして海津城に入ることをせずに千曲川西岸を進み、茶臼山に本陣を構え、千曲川西岸一帯に布陣します。謙信としては善光寺への補給路と退路を断たれたことになるわけです。しかし、なぜか信玄は謙信を一気に攻め落とさなかった。山下から山上を攻めるは不利と思ったのでしょうか。しかも、謙信は全く動じず、本陣の斎場山(妻女山古墳の上)に楯を敷いて舞台を作り、猿楽に興じ、自らも鼓をうったとか。これも謙信の戦略。これでは軍の緊張も持たないと思ったか、信玄は全軍を海津城へ入れてしまったといいます。兵糧責めは失敗したわけです。

●妻女山(赤坂山)の上方25分の場所にある陣馬平は、かなり広い平らな場所ですが、現在は林になっていて、冬枯れの季節以外は面影を偲ぶべくもありません。歴史マニアが訪れても、そんな人数は無理だろうと思うでしょう。ただ、昭和23年にGHQが撮影した航空写真を見ると、当時は現在と違い、山の頂まで桑畑や桃畑などで開墾されていたため、大きな平地や緩い傾斜地があったことがよく分かります。また、土口側に少し降りると、堂平という細長い平地があり、蟹沢という豊富に飲み水の得られる場所もあります。陣馬平からは海津城の夜襲の飯を炊く煙が丸見えでした。また、武田方は一食分づつを炊いたけれど、上杉方は、三食分ずつ炊いたので煙がたたなかったという伝承もあります。妻女山へ訪れた際には、もう少し足を伸ばして天城山(てしろやま)まで行かれることをお勧めします。降雪前の冬枯れの11月下旬か、熊が冬眠から覚める前の早春が最適です。一応熊・猪対策をお忘れなく。夏場はオオスズメバチがいます。

●鞍骨城、天城支城は清野氏の砦で、居住していたわけではないと思われます。南から上杉が来ることはあり得ないので、警備が手薄だったことも考えられます。前述のように海津城に全軍を集めていたのかも知れません。上杉方は鞍骨城、天城城を抑えなければ妻女山に陣を構えることは不可能です。あらかじめ忍びに偵察させて無人、あるいは警備が手薄であることを確認していたのでしょう。
有名な啄木鳥戦法にしても、竹山城のあった象山から鞍骨城、天城城への道はヤセ尾根で、とても大軍が進めるところではありません。武田別働隊は、夜陰にまぎれて清野の山裾を進んだとみるのが現実的でしょうが、「甲越信軍記」には、西条の入から唐木堂越えで鏡台山から坂城の日名へ抜ける道を登り、大嵐の峰を越え、倉科の里に下りてから二本松峠下の谷で隊を調え(兵馬という場所があります)天城越えで斎場山に攻め込んだと書かれています。地元の伝承もそう伝えています。さらに謙信は、千曲川を天然の要害として笹崎、赤坂山、赤坂下、岩野十二川原にも軍を置いたといわれています。
真実は物言わぬ妻女の山のみぞ知るというところでしょうか。しかし、第四次川中島合戦は、双方にとってあまりに犠牲の多い無益な戦いであったことには違いありません。また、善光寺平の領民にとっては、艱難辛苦の日々であったことでしょう。

●当時、斎場山(妻女山)の西の山上には会津比売神社があり、それは上杉謙信の庇護を受けていました。妻女山は江戸時代の命名で、本名は斎場山です。西条は後世の誤記で、地元ではにしじょうと読み、別の場所です。さいじょうとは読みません。象山の上にあったのが西条城(竹山城)で、その東に西条(にしじょう)という集落があります。この辺りを混同されている方がおられるようです。妻女山の麓にある集落は、斎(いわい)野と呼ばれました。現在は岩野といいます。麓には会津比売神社がありますが、会津比売(あいづひめ)とは、諏訪大神の後裔・出速雄命の妻女といわれる、「会津比売命」が祭神です。
この辺りは神話にまつわる神社や古墳(埴科古墳群)がたくさんあります。天城山の頂上や北の尾根上にも古墳があります。いずれも古い時代に盗掘され、満足な調査や研究がなされていないのが残念です。また、古墳の上に城塞が建てられてしまっていたり、松代地震で崩壊したりして保存状態が悪いところも多いのが残念です。

会津比売神社は、元は大きな神社だったらしいのですが(場所は不明、山上にあったという説あり。御陵願平か)、上杉方についたために、武田が北信濃を支配したときに焼き払われ、その後小さく山陰に再建されたということです。仏教徒という割には、信玄も謙信も多くの寺社に火を放っています。また、東にある集落は清野といい須賀野の義といわれます。清野には武田信玄を祀った神社があります。しかし、この地は、元々上杉方の村上義清の領地ということもあって、武田は残虐な侵略者として嫌う人が多かったようです。けれども武田の有能な手下であった真田は、人気がありますね。まるでアフガニスタンかベトナムのような信州ですが、信州の豪族達は、親子兄弟で敵味方に分かれてどちらかが必ず生き残るようにもしたわけですし、下克上で跡目争いもあったようです。戦うときは先方集として前戦で真っ先に攻め込まなければなりませんでした。あげくこの地を追われたため、清野には清野氏はなく、屋代には屋代氏がありません。また、一方で足軽は農閑期に金のいい方についたなんてこともいわれているわけですから、実際は、もっともっと混沌としていたのかもしれません。二律背反的な複雑な背景が見て取れます。
現在の妻女山は、上信越自動車道によって削り取られた斜面が痛々しい様をさらけ出しています。写真右手、妻女山(赤坂山)の向こうに見える三角の山は、武田別働隊が辿ったといわれる大嵐の峰の南端です。左奥の山は、松代の東西にそびえる奇妙山。
■斎場山(旧妻女山)についての詳細は、2007年1月2日のフォトルポをご覧ください。清野氏の要害・鞍骨城については、2006年12月31日のフォトルポをご覧ください。
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