妻女山(赤坂山)から見る鞍骨城趾 2004.8.15

●尾根に三つ見えるピークのうち右側の頂が清野氏の鞍骨城趾のある鞍骨山(798m)です。真ん中は鏡台山から続く尾根(大嵐の峰・戸神山脈)の先端です。左は象山から続く682.8mのピーク。
この辺り一帯は、信州の豪族である村上氏の領地であり、鞍骨城は村上氏の家臣である清野氏の最も重要な城でした。
清野山城守勝照が、1467年(応仁元)入道して徳寿軒といい鞍骨城を築き、後1510年(永正年間)頃同城の鬼門除けに離山神社を創建したといいます。
 1488年(長享二)清野氏(正衡の頃か)諏訪社の下社秋宮宝殿造営の郷と定められています。
 1495年(明応四)清野伊勢守長続(伊勢守国基か)の頃、英多庄(松代、東条、西条、豊栄)を支配していたことが記されています。
 16世紀のはじめ(国俊の頃か)節香徳忠和尚を請し森村に禅透院を建てました。
西に小支城跡(天城城)、また、その西北の下にわずかに水を湧出する「水の平」という場所があるそうです。清野の月夜平という字に水の平という地名があります。
清野氏は清野中沖に清野屋敷(大村の古峰神社の場所)があり、普段はそこに居住していたと伝えられています。
清野氏が海津城の前身、海津館に移ってからは、倉が建てられ、「とりのくら屋敷」と呼ばれたとか。

●埴科・更級地方には、街道を監視する為に築かれたと思われる山城がいくつかあり、それらを総括したのが尾根伝いの鞍骨山山頂に築かれた清野氏の本拠である鞍骨城です。
鞍骨城はその中の中心的な城郭であり、各城の詰めの城とでもあったといわれています。
また倉科側を見張るために、二本松峠の西方にある天城山(てしろやま・坂山694m)には、鞍骨城の支城・天城城がありました。
このような防御体制が上杉謙信と武田信玄の川中島合戦の前に出来あがっていたため、後の川中島の戦局(1553〜1564)にも大きく作用したといわれています。

●清野氏は、村上の家臣でしたが、真田幸隆の謀略により、本拠・葛尾城北の清野氏が寺尾氏とともに武田方に走ったため戸石城は天文20年(1551)武田の手に落ちました。
その後、清野氏は、永禄7年(1564)に、武田信玄に、岩櫃城の真田幸隆救援を命じられています。
ただ、川中島合戦において上杉謙信がここ妻女山に陣を構えるには、すぐ上の鞍骨城と天城城も上杉の支配下でないとつじつまが合いません。すぐに上から攻撃されてしまいます。
しかし、実際は清野氏は武田方でした。なぜ上杉が妻女山に陣を貼ることが出来たのか、その辺りは謎ですが、南から上杉が来ることはあり得ません。
間者により上杉の北方からの進軍は分かっていたでしょうが、武田本体が来るまで、全員海津城に詰めていたと考えるのが自然でしょう。

●天正10年(1582)に武田は滅亡しました。その後の本能寺の変後に川中島地方を上杉氏と後北条氏が争った際には、上杉軍がこの山域一帯を制圧し、鞍骨城には直江兼続が入城し、
北条軍が制圧していた海津城を眼下に圧力をかけ退散させ、この戦いに勝利しています。つまり、鞍骨城を抑えることは、海津城への大いなる脅威になったわけです。

●最も高い主郭には石垣が残っており、案内板もありますが、最後は急峻な道無き山を登らなければならないため、到達には困難を極めます。
また、この辺りは熊や猪の生息域でもあるので、熊よけの鈴や、ラジオは必携です。熊が冬眠し、雪のない初冬あるいは早春に訪れるのがいいでしょう。
妻女山から妻女山奥の林道の分岐を右へ登り、天城山経由で左に尾根をたどると行けますが、所々道もあやしいので、25000分の一の地形図が必要です。
信州の熊情報は、「信州ツキノワグマ研究会」のサイトで。
地図の妻女山から林道(地図には記載なし)を、南へ登り、594m経由で694.6mの天城山へ、南東に歩を進め、二本松峠経由で鞍骨山(798m)に至ります。
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