林城 2004.8.14

●林大城のある金華山。左の麓、金華橋を渡った所に、頂上へ至る東山遊歩道の登山口があります。大蒿崎(おおつき)の谷を隔てて南に林小城。
山はいずれも麓近くが急峻で、かなり規模の大きい難攻不落の要塞群であったことが分かります。しかし、その強固な城も武田春信の軍勢の前に戦わ
ずして落城。小笠原長時は、平瀬城(松本市)に落ち、さらに東信濃の村上義清を頼って落ち延びました。その後
には上杉謙信を頼り越後に赴き
ます。そして、三好長慶を頼り上洛、13代将軍・足利義輝の知遇を受け、将軍足利義輝の弓馬の師範となりました。しかし、松永久秀らにより義
輝が殺害されると、再び謙信のもとへ逃げますが、謙信死去後、会津に逃れ、芦名盛氏に身を寄せていました。しかし、なんと家臣に殺害されました。
確かではありませんが、酒宴の席で家臣の妻にちょっかいをだしたとか。小笠原流礼法の先祖のひとりとしては、なんともトホホな末路でした。
●小笠原長時が武田信玄に敗れた後、林城は武田氏により修築が行われました。 武田氏滅亡後は、信長に味方した木曾義昌領となりますが、 本能寺の
変により、信濃は再び、上杉・北条・徳川の混戦状態となります。上杉の支援を受けた小笠原長時の弟貞種が一時、深志城を押さえますが家康の後
援を受けた長時の長子貞慶が旧臣を率い、叔父貞種を追い旧領を回復しました。小笠原貞慶による支配が安定するまでの間は山城に次々と手が加えら
れたと近年の研究で判明したそうです。小城の石垣も大半は小笠原貞慶の時代に設けられたものといわれています。
●小笠原貞慶の子秀政は家康の関東移封(1590)にともない、下総古河三万石 に移りました。その後、秀政は信濃飯田を経て松本八万石に復しました
が、大坂夏の陣で長子忠脩(ただなが)とともに戦死しています。その墓は麓の廣澤寺の裏山(林小城)にあり、松本市特別史跡になっています。
その後家督は二男忠真が継ぎ、豊前小倉藩主として幕末に至るわけです。そして黒船到来の時には、佐久間象山を有する信濃松代藩とともに横浜の
警護にあたりました。

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