深大寺城跡 2004.5.30

●深大寺城跡は、南北約200m、東西約170mの城域をもち、土塁が築かれ、その外郭は数mの深い 空濠に囲まれています。
第一郭から第二郭へ移る虎口のそばに城跡の石碑があります。第三郭は、現在テニスコートになっています。

戦国時代の関東は、北条氏と上杉氏が長きにわたり勢力争いを繰り広げていました。深大寺城もそのような背景の中で増強されました。
大永四年(1524)代々関東管理職を任う扇谷上杉朝興(おうぎがやつうえすぎともおき)は、相模国の北条氏綱に高輪原の戦い(港区高輪)にて敗北し、江戸城を奪われて河越城へ敗走しました。
その後、江戸城奪還に執念を燃やし続けましたが、天文六年(1537)4月に病死。
子の朝定(ともさだ)は13歳で継ぎ、遺言に従い、既に旧郭のあった深大寺城を再興させました。
そして朝廷の家臣、難波田弾正(なんばだだんじょう)を配しました。
上杉氏は多摩川南岸を制圧し、矢野口の小沢城や稲城の枡形城に出陣する北条方に対峙、牽制し、深大寺城を橋頭堡として江戸城奪還の機会をうかがっていました。
この時、北条方は家臣高橋綱種を牟礼砦と烏山城に入れ深大寺城への備えとしていたようです。
同年7月江戸城にいた北条氏綱は、突如兵を動かし深大寺城を攻めると見せかけ、直接本拠河越城を攻撃しました。
難波田弾正は主君を守るべく深大寺城を引き払いました。虚をつかれた上杉氏は敗走、難波田弾正は戦死して、朝定は武蔵国松山城に逃れました。
こうして上杉方は武蔵国の重要な拠点を失うことになりました。
深大寺城はその後使用されず、築城後数ヶ月で廃城となりました。あまりに期間が短いため、築城途中で廃城になった可能性も否定できないといわれています。

その後、北条氏の支配が続きましたが、天正18年(1590)豊臣秀吉の命を受けた前田利家・上杉景勝の連合軍によって北条氏康の次男氏照の居城八王子城が攻撃され、わずか一日で落城。小田原の北条氏も秀吉により滅ぼされ、豊臣秀吉の天下統一の時代を迎えることとなりました。

深大寺城に関する史料:「河越記」「小田原記」「北条五大記」「鎌倉九代後記」「鎌倉管領九代記」
深大寺城については「調布市郷土博物館」で詳しく見ることができます。
調布市小島町3-26-2 京王線京王多摩川駅下車徒歩5分
TEL:0424-81-7656 入館料:無料 駐車場:なし
開館時間:9:00〜16:00 休館日:月曜日・祝日・年末年始


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