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●鞍骨山には、清野氏の要害・鞍骨城がありました。その西、坂山古墳のあった天城山(てしろやま)。戦国時代には、鞍骨城の支城・天城城がありました。
鞍骨山の左に見える一番高いところはピークではなく、4.5kmほど南にある鏡台山の尾根の端になります。
標高798mの山頂にある鞍骨城址(くらほねじょうし)は、上信越自動車道の松代SAから見ると真南の高尾根、高圧鉄塔の左側にあります。
村上氏配下、清野氏の主城で、永正年間(1504〜1521年)に清野山城守勝照が築城したといわれます。
主郭は、80坪程の広さを有し、自然の地勢を巧みに利用した堅固な山城といえるでしょう。
西に少し離れて天城城(てしろじょう)、その西北の下に少しの水を湧出する「水の平」という場所があります。
また、清野氏は清野中沖に清野屋敷と称するものがあったと伝えられています。 こちら北面は急ですが、南面はやや緩やかで巻き道もあります。
この辺りの山には、いくつもの山城があり、街道筋を見張っていたようです。そのことが戦国時代の川中島の戦いにも大きな影響を与えたといわれています。
妻女山は、地元でもそう呼ばれて久しいのですが、本当は赤坂山といいます。本当の妻女山は、入山と書かれたところの向こう側、妻女山古墳のある512mの頂です。
昔は、斎場山(さいじょうざん)と呼ばれました。斎場山と称するいわれは、山麓に「会津比売神社(あいづひめじんじゃ)」があり、信濃国造健五百建命の妻女といわれる、
諏訪大神の後裔「会津比売命」が祭神であるところから。国造の妻女を斎き祀るということからこの称がおこったと思われる、ということです。
「明治初期には、円形の祭祀壇凡四十九箇あったという。信濃国造(くにのみやつこ)、続いて埴科郡領が斎場・斎壇を設けて、郡中一般が袷祭(祖先を会わせ祭る)した処といわれ、
旧蹟も多く認められるが、その詳細は定かではない。」と旧岩野村から長野県に報告されています。
陣を貼ったとされる陣馬平は、入山と書かれた少し左の標高500から530mあたりに広がる平地だといい伝えられています。
現在招魂社の辺りが広く見えるのは、大河ドラマの時に観光客を考慮して駐車場建設のために平らにしたからです。昔は狭い尾根でした。
戦後すぐに撮影されたGHQの航空写真には、陣馬平辺りが広大な桑畑だった様子が写っています。
電車は、長野電鉄河東線。 下車駅は、岩野か象山口(ぞうざんぐち)になります。天城山(てしろやま)は、近くまで林道が通っていますが、鞍骨城までは薮で困難な山登りになります。
冬枯れの時期以外は無理でしょう。また熊の生息地で、私の親戚も遭遇していますので、熊対策が必要です。夏はスズメバチやマムシにも注意が必要です。
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