| 妻女山(赤坂山)展望台 2003.8.8 |
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| ●善光寺平の北にいた上杉の軍団は、なぜ妻女山に、また、どうやって妻女山にたどりついたのでしょう。上杉謙信は、一説に中野から川田と松代を結ぶ重要交通路、可候(そろべく)峠(尼厳山と奇妙山の間の峠)を越えて、海津城を巻きながら象山の多田越えを抜け、妻女山古墳(斎場山512m)の上に床几を置き、薬師山、御陵願平、千人窪、陣馬平へ布陣したと伝えられています。 海津城には、まだ信玄がおらず高坂弾正以下配下のものがいたわけですが、謙信は皆神山背後の地蔵峠から信玄の軍がやってくると思っていたようです。地蔵峠で急襲しようと思っていたのかもしれません。しかし、実際は千曲川西岸を進み、塩崎城と茶臼山に陣を構えます。また、千曲川西岸の御幣川(おんべがわ)に布陣し、謙信に圧力をかけます。謙信としては善光寺への補給路と退路を断たれたことになるわけです。しかし、謙信は動かなかった。信玄も謙信を一気に攻め落とそうとしなかった。しかも、広瀬の渡しから全軍を海津城へ入れてしまったといいます。兵糧責めにしなかった。これは謎です。 ●海津城から見えない土口側の千人窪になら大勢隠れられそうですが。確かに陣馬平はかなりの広さはあります。その中腹の堂平や千人が窪はかなりの広さがあり、また、謙信が夜にはそこで休んだといわれる堂塔があったといわれる西の薬師山までは、700mばかりの長坂と呼ばれる長い尾根で、途中に両眼平と呼ばれる広い平地もあります。ちょうど松代の海津城からは陰になる場所なのです。 ●今回登った天城砦と本城の鞍骨城は、武田方の清野氏の城だったのです。眼下にすぐ妻女山があるわけです。しかも上杉謙信が兵を置いたとされる陣馬平や千人窪は妻女山と天城山の間になります。上杉が天城城と鞍骨城を落としたのでしょうか。または、妻女山に謙信が陣取るとは思わず、清野方は海津城にみな詰めていたのかもしれません。 ●有名な啄木鳥戦法は、信玄の別働隊12000が海津城から、西条の入から唐木堂越えという鏡台山を通って坂城の日名へ抜ける道を登り、右手森の平から大嵐の峰を通り、山を超えて妻女山(斎場山)の脇より謙信本陣に夜討ちをかけたことになっていますが、これは辛苦を伴う行軍だったはずです。上の図では、清野の山裾を進軍したように描かれていますが、これでは陣馬平から丸見えです。竹山城(図では西条城)から鞍骨城経由で大軍が進むことは地形的にかなり困難です。急峻なヤセ尾根で両側が崖の所もあり、とても大軍が短時間で進めるコースではありませんし、鞍骨城から天城山までは、深い堀切が3つもあります。天城山から妻女山へ下る尾根も陣馬平まではヤセ尾根です。堂平に下れば妻女山はすぐですが。戦前までは、山仕事やキャンプで歩ける普通の山道がありました。しかし、大軍がひと晩で通れるかは疑問も残ります。唐木堂越えから隊を分けて一部は倉科へ下りて南、西へ回ったかもしれません。 ●当時、妻女山の西の山麓には会津比売神社があり(山上という説もあり)、それは上杉方でした。信濃国造健五百建命の妻女といわれる、諏訪大神の後裔「会津比売命」が祭神です。全国に同名の神社は無く、特異なお宮です。妻女は古代においては斎場であり斎場山(さいじょうざん)でした。西条は後世の当て字、あるいは口述筆記の際の間違いで、地元ではにしじょうと読み、別の場所です。象山の上にあったのが西条城(竹山城)で、その東に西条という集落があります。この辺りを混同されている方がおられるようです。妻女山の麓にある集落は、斎(いわい)野と呼ばれました。現在は岩野といいます。つまり斎場山が妻女山となったわけです。 この辺りには神話にまつわる神社や古墳がたくさんあります。天城山の頂上や妻女山の上の御霊眼平にも古墳があり、古色古墳群の一角です。いずれも古い時代に盗掘され、満足な調査や研究がなされていないのが残念です。また、古墳の上に城塞が建てられてしまっていたり、松代地震で崩壊したりして保存状態が悪いところも多いのが残念です。 ●そういう云われもあって上杉謙信が妻女山と名付けたそうです。元は大きな神社だったらしいのですが、上杉方についたために、武田が北信濃を支配したときに焼き払われ、その後小さく再建されたということです。また、東にある集落は清野といい清めの野からきており、菅野の義ということです。清野には武田信玄を祀った神社があります。しかし、この地は、元々上杉方の村上義清の領地ということもあって、武田は残虐な侵略者として嫌う人が多いようです。けれども武田の有能な手下であった真田は、人気がありますね。アフガニスタンかベトナムのような信州ですが、信州の豪族達は、親子兄弟で敵味方に分かれてどちらかが必ず生き残るようにもしたわけですし、足軽は農閑期に金のいい方についたなんてこともいわれているわけですから、実際は、もっと混沌としていたのかもしれません。二律背反的な複雑な背景が見て取れます。 現在の妻女山は、上信越自動車道によって削り取られた斜面が痛々しい様をさらけ出しています。国土交通省の役人にとっては、遺跡の景観など眼中にないのでしょう。 ●第四次川中島合戦は、実際にあったのでしょう。しかし第一級の史料が無く、武田方の軍学書『甲陽軍鑑』(武田信玄の近習・高坂弾正の記述を元に、江戸時代初期の軍学者・小幡官勘兵衛景憲が作ったもの)や『上杉軍談』『上杉家御年譜』などに頼らざるを得ないのが実情です。以前は、全く史料となりえないものと思われた時代もあるようですが、現在は、注意深く脚色と事実を振り分ける研究もなされているようです。それ故、地元に古くから伝わる伝承を細かく集めて検証する必要もあると思います。 |
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