サンパウロからレシーフェへ50時間のバスの旅

 明け方だった。それまで厚い雲に覆われて見えなかった地上が、急に眼下に現れた。地上は、どこまでも続く、濃く、厚い緑の絨毯に覆われていた。私がその時目にしたのは、アマゾン河の上流地帯のひとつであるマットグロッソのジャングルだった。私は、それまで開いていた学生時代からの愛読書のひとつであるレヴィ・ストロースの『悲しき熱帯』を、足元のデイバッグにしまった。そして、ジャンボジェット機の窓ガラスに額を押し付けて、朝日を浴びた面が金色に輝く、自然がつくりあげた濃緑の見事なタペスーリーを、飽くこともなく眺めていた。彼、レヴィ・ストロースは、眼下に見えるこのジャングルをさまよい、構造主義の原典ともなったかの書をしたためたのだった。
 ジャングルのすぐ上には、小さい真綿のようなちぎれ雲が、一定の間隔をおいて規則正しく並んで浮いていた。それは夜明けになってジャングルの木々が吐き出した水蒸気によってできたものだ。私が見たのは、まさにジャングルの息、呼吸そのものだった。
 やがて、真下に、中華の締れ麺を放り投げたかのように、好き勝手に蛇行した川が現れた。川は右に左に8の字を描くように曲り、時にはつながり、多くの三日月湖を生み、その姿はまるで小学校で習った「川の一生」の現物モデルを見るようだった。コンクリートで固められた日本の川のことを考えると、なんと自由でのびのびとした川なのだろうと思われた。
 突然、いかにも無造作に定規で引いたような黄色い線が現れた。明らかに人間の手が入ったその線は、鋭利な刃物でジャングルに刻まれた傷のようであり、寸分の狂いもないほど真っ直ぐ引かれていた。そして、ジャングルのある一点で突然折れ曲がり、真っ直ぐな道は続く。やがて遙か彼方で、同じような直線とジャングルの真ん中で交差する。
 自由に流れる川を懐に抱きながら無辺際に広がるジャングルと、あまりに幾何学的で抽象的な道路とが強烈なコントラストを放って存在していた。まるで地球をキャンバスとした壮大な現代芸術とも思えるその風景は、また、これからの旅の先々で目にするであろう人為によるアマゾンの大きな変貌と、それによってもたらされた環境破壊の大きさを予感させるには充分なものだった。遠くにジャングルを焼く煙が見え、その辺りのジャングルはいくつもの四角に切り取られていた。日が高く上るに連れて、ジャングルの上に輝いたちぎれ雲は消えて行った。リオ・デ・ジャネイロまではまだ3時間余り、ほかの乗客は大方まだ眠っていた。私はこれからの旅への期待と不安に胸がうずくのを押さえられずにいた。

 ブラジルでの最初の10日間を、私はサンパウロ郊外の叔父の家と、叔父が以前経営していた農場のある、サンパウロから南へ200キロほど行ったサンミゲル・ド・アルカンジョという小さな田舎町で過ごした。その間に日系人のパーティーにいくつも招かれ、その都度大歓迎を受けた。
 最初に私が南米に旅をした1983年当時、まだブラジルから日本へ働きに行く日系人はほとんどなく、航空券も高かったため、ブラジルで成功して金持ちになった人ぐらいしか日本へ行くことはできなかった。だから、二世三世の若者で日本へ行ったことのある人はほとんどいなかった。そのためか、彼らの父や母、あるいは祖父や祖母の祖国である日本への関心は、並々ならぬものがあった。
 彼らはブラジルの通貨に換算した日本での私の給料の高さに目をむいて驚いた。なぜならブラジルでそれだけの収入があったら、郊外にプール付きの家を建ててメイドを雇えるぐらいのものだったからだ。しかし、その年収では東京では家どころか土地付きではトイレひとつ買えないかもしれないという話に、彼らは信じられないと言っては驚き、ついこの間まで私が風呂の無い2Kの木造アパートに住んでいたと言うとさらに驚き、理解できない何という不幸なんだと、憐れみの目で見られる始末だった。為替レートの持つ不可解さは、以後南米の国で換金するたびに感じることだった。
 けれども、私がアマゾンについての情報を得ようと問うと、皆一様に口をもごもごさせてしまい要領を得ない。聞くと誰も行ったことがないのだそうだ。サンパウロ総合大学の学生だという叔父の甥の話では、リオやサンパウロの人々にとっては、アマゾンよりパリやニューヨークの方により大きな関心があり、心理的な距離もそちらのほうが近いということだった。これには正直いってがっかりしたが、反面そういうものかもしれないとも思った。ブラジルはとてつもなく大きいのだ。

 別の日にサンパウロの街を一人で歩く機会もあり、折よく開かれていたサンパウロ・ヴィエンナーレ展を観ることができた。なんと無料だった。展示スペースは非常にゆったりとしたもので見やすいことこの上なかった。しかも平日だったせいか無料だというのに人の入りも少なく、落ち着いてゆっくりと見ることができた。
 ある部屋に入ると、音の割れた行進曲が流れていた。ずいぶんと耳障りなBGMだと思ったが、そうではなかった。それはジョン・ケージの作品で、床に置かれた安っぽいプレイヤーの上で傷だらけのLPレコードが回っていた。
 また、別の黒い壁に囲まれた広い部屋には、中央にブラジルの赤土で作られた直径3メートルほどのサークルを三つ並べた作品が置いてあった。床に乾いた土で描かれたその作品は、抽象的であって凛としていながら、なおかつそのディテールは土の素朴さを良く残しており、三つの円は幾何学的な秩序正しさを保ちながら、暖かく力強く、見るものの心を解放しながら落ち着かせてくれる良い作品だと思っていた。が、しかし、館内を一周した後、もう一度見たくなって戻ってみると、その作品の上もまわりも、土の付いた無数の小さな足跡で埋め尽くされ、作品は飛び散り、まるっきり原型が残っていなかった。なんということだ。

 私はさっき出会った小さな小学生の団体を思い出した。彼らが、陰の破壊者、いや芸術家に違いなかった。引率の教師が止める間もないほどの出来事だったに違いない。小さな芸術家達はアッという間にその作品の上を嬉々として駆け回ったに違いない。そういう衝動に駆られる作品だ。
 脂汗をかきながら生徒たちを移動させ、そそくさと出ていった教師と、言われてもたぶん事の重大さに全く気がつかなかっただろう脳天気な子供たちを想像して、私は一人で笑ってしまった。何日かして、またこの展覧会を見にきたが、そのときは作品は元通りに作り直され、まわりにはロープが張られていた。それを見て、また私は笑った。展覧会もまたブラジル的であった。
                  
「アキ・ノ・ブラジル」
 私がひとりでサンパウロを発つ前に、叔父から繰り返し言われた言葉がこれだった。直訳すれば「ここはブラジルだよ」ということだが、つまり、ここはブラジルで日本じやないから、ブラジルを本当に理解して帰りたいのなら「日本のものさし」は捨てなさいということだった。おそらくその言葉は、昭和30年に移民したての叔父自身が耳にタコができるほど言われ、また、自らに幾度となく言い聞かせた言葉に違いなかった。それは、同じように、私のこれからの一人旅へのなによりのアドバイスでもあった。
 中国の古いことわざだったと思うが、空っぽの壷には新しい水がたくさん入るものだ。私は自分にそう言い聞かせた。

 それは私が今まで目にしたことがないはど巨大なバスターミナルだった。ターミナルの中は人いきれと、バスの排気ガスの匂いと、マラクジヤ(パッションフルーツ)のねっとりした香りが充満していた。大きな港の桟橋を思わせる長いメインのプラットフォームからは、数えきれないはどの小さなプラットフォームが斜めに突き出ており、ブラジルのありとあらゆる町へ向かう長距離バスが出入りし混雑をきわめていた。サンパウロの北部、チエテにあるこのバスターミナルは南米最大の規模を誇り、航空網とならんでブラジルの人々の最も重要な交通手段となっていた。ブラジルでは鉄道が発達するより早く航空網ができてしまった。よって、陸上の旅の移動手段はもっぱらバスということになる。
 私の前では、肺袋に入った大きな荷物や、いろいろな大きさと形の、どれも傷だらけで薄汚れたバッグやスーツケースを、係員がバスの下部にある大きなトランクに次々と放り込んでいた。たくさんの手紙や小包の入った大きな網の袋も放り込まれた。長距離バスは郵便車の役目もはたしているようだ。ブルーのザックカバーのかかった私のバックパックもタッグをつけられ長旅の席についた。中には、叔父が持たせてくれたイタリア葡萄、叔母が持たせてくれた手作りのナスのピザ、そしてアマゾン川に着いたときに祝杯を挙げようと買い求めたチリの高級赤ワインが入っていた。

 出発する時間が近付くにつれ、小さなプラットフォームの上には乗客や見送りの人があふれ賑わってきた。家族と別れの抱擁をするもの、抱き合って言葉もなくただ涙する男女、旅への興奮にはしゃぎまわる子供達、そんな光景をどこか別の世界のことのように眺めながら、私はいよいよ始まる未知の旅への興奮と不安を心の奥で静かにもてあそんでいた。
 やがて出発の時間が迫り、乗車が始まった。私は見送りにきてくれた叔父と握手を交わし、彼の、ボア・ヴィアージエン(よい旅を)の言葉を背に受けて車上の人となった。全員が乗ったことを車掌が確認しドアを閉めた。エンジンが高らかにかけられ車体が小刻みに振動し始めた。バスはプラットフォームに沿ってゆっくりと下がり、向きを変え、見送る人たちの笑顔も泣き顔も歓声もすべて置き去りにして、どんよりと曇ったサンパウロの空の下に滑り出して行った。行き先は2700キロ余り先のブラジル北東部の州都、レシーフェだった。
 初めの予定では、ブラジルの海岸線に沿って町を巡りながら目的のアマゾンに達するつもりだったが、叔父の家でブラジルの地図を見ているうちに気が変わってしまった。一刻も早くアマゾン河が見たくなってしまったのだ。けれども、だからといっていきなりジェットで乗り込むというのも脳がないような気がした。そこで、ちょうどサンパウロとアマゾン河河口の街ベレンの中間点の滞在地として、ブラジルの最も古い町のひとつであるレシーフェに行くことに決めたのだった。もとよりはっきりした予定などない旅ではあった。
 が、とにかく私は私の旅を最初から理想通りに、行き当たりばったりのものとすることができたのである。私の「放浪の旅」がそのとき始まった。

 私の乗ったバスは、ブラジル最大のバス会社イタペミリン社のレイトだった。レイトというのは寝台バスのことで、中は右に一人掛け、左に二人掛けの黒い皮のシートが並び、普通のバスだと50人ほども乗れるところ、全部で17人分の席しかないという贅沢なバスだ。シートの大きさは旅客機のビジネスシートぐらいのゆとりはあった。一段低くなった通路とシートの下一面には黒いカーペットが敷きつめられており、なかなか豪華な作りだ。客室と運転席の間はアコーディオン・カーテンを引いて仕切られるようになっていた。
 座席数が少ないため料金は普通のバスの二倍である。レイトの二倍がだいたい航空運賃である。各シートは、前の座席の背についているパケットを手前に倒すと足置きになり、大きなヘッドレストのついた背もたれをいっぱいに倒すと、水平ではないが体をいっぱいに伸ばして眠ることができた。寝台バスらしく枕とブランケットも一組づつついていた。
 食事や美人のスチュワーデスはついていないけれど、とっても甘いコーヒーとミネラルウォーターの入ったポットがいつでも飲めるように用意され、また乗客一人一人にはチョコレートやキャンディ-のいっぱい詰まったプラスチックのバスケットが配られた。
 私のシートは右側の一列の席の一番後ろだった。私の後ろには、みんなが代わり番こに座る席、つまりトイレがあった。
 サンパウロの街を抜けて郊外のハイウェイに乗ったころ、何が待っているか見当もつかない一人旅に、とうとう踏み出してしまったという不安と興奮にうずきっぱなしでフワフワしていた私の心も、やっとブラジルのテラロッサの赤い大地のうえに軟着陸をした。
 外はすでに夕暮れの色を帯びていた。連綿と続く丘にはオレンジ色の瓦をのせた白壁の家が重なり合って建っていた。家々の周りには濃い緑の葉をいっぱいにつけた椰子の木やアカシヤの枝が、気まぐれに吹く風に揺れていた。
 家と家の間の、空き地とも道路ともつかぬ赤土の上を日焼けした男たちが家路につく。大きな荷物を頭の上に器用にのせて運ぶ、たっぶりと太った女性。プロパンガスのタンクをのせた荷車を、足の太い栗毛の馬が下を向きながらゆっくりと引いていく。それを黄色いワーゲンがクラクションを何回も鳴らしながらバタバタと追い抜いてゆく。
 空き地の隅に捨てられたゴミの山に、にわとりの倍はあるウルプーという真っ黒なハゲタカが何匹も群がって夕食をとっていた。ところが、泥だらけのジョギングパンツをはき上半身は裸、手に手に長い棒を持った、この世で一番嫌いなものは退屈という子共たちによってウルプー君達の大事な夕食は中断させられてしまった。けれども、彼らはすぐ横にある家の屋根のてっぺんに横一列に並びじっと下を見ている。油断のならぬ小さなギャング達は、また、とっても飽きっぽいということを彼らはきっと知っているのに違いなかった。

 バスは、3時間か4時間置きにランショネッチと呼ばれるドライブインに15分ほど立ち寄る。また、昼食と夕食の時間には、ヘストランチ(レストラン)のついたドライブインに立ち寄る。この時の停車時間は30分。しかし、そこはブラジル。いろいろな都合で停車時間はまちまちになる。その間に乗客は降りて、上と下の始末をする。
 確かにバスにもトイレはついている。だが、サンパウロから遠ざかるに連れ道路状態はラフになり、小のほうはともかく大のほうは難しい状況になった。私は果敢に試みたが、時速100キロで飛ばすバスが道路のこぶを飛び越えたとき、便座ごと20センチも飛び上がってしまい、臆病で哀れな私の分身はそれっきり二度と出てこようとはしなかった。
 ランショネッチにあるものといえば、世界中どこにでもあるコーラ、ファンタ、セブンアップ。ブラジルのビール、アンタルチカかブラマ。搾り立てのマラクジャジュースやオレンジジュース。コシーニャ・デ・フランゴという、スパイシーな鶏挽肉をジャガイモ、タマネギと小麦粉に混ぜて、衣を付けて揚げたもの。ニョッキのコロッケといえば想像できるだろうか。そして小麦粉にひき肉を入れて揚げたキビと呼ばれるもの。中にチーズとかひき肉が入ったブラジルの揚げ餃子ともいうべきパステス。どれも美味しいけれど、どこのランショネッチに寄っても判で押したように同じものしかない。これらは全てSALGADO(サウガード)と呼ばれる軽食の代表的なものだ。

 レストランでは、ほとんどの人がコメルシアル(定食でプラット・ド・フェイトという一皿料理)を頼んでいた。たいていは、牛肉か鶏肉をスパイシーに焼いたものと、トマトや玉ねぎやセロリにコリアンダーの葉を刻み入れてドレッシングにつけたもの(ヴィナグレッチ)、これを肉に添えて食べる。さぱりしていくらでも肉が食べられる。そしてポテトフライ、塩味の煮豆、ダラッと茹でられたスパゲッティー、塩味のついたパサパサのライス、それらすべてを一皿に一緒盛りにした定食である。それは、以後ブラジルのどこでも目にする定番中の定番料理だった。不思議なことに、どこで食べても味もほとんど同じだった。
 ただバスの旅は飛行機以上に中で動くことができないので、あまりおなかが空かないのも事実だった。
 レイトが晋通の長距離バスに比べて値段が高いためか、乗り合わせた乗客に若者はいなかった。ビジネスマンか中流の家族連れがそのすべてだった。外国人は私一人だった。サンパウロからレシーフェまでは、2700キロ余り。北海道の北端の町、稚内から沖縄の宮古島までとほぽ同じ距離である。レイトは昼夜の別なく走り続け、予定では48時間で目的のレシーフェに着く予定だった。

 一日目の夜は早くやって来た。バスはブラジルの海岸山脈に添って高原地帯の林の中のハイウェイをひた走っていた。アコーディオンカーテンが運転席と客席の間に引かれ、車内灯は小さな電球に替わり、乗客たちはそれぞれにリクライニングシートをいっぱいに倒し毛布をかぶって眠りにつき始めた。私も同じ様にしたが、なかなか寝付かれないでいた。
 カーテンをめくり空を見上げると、走り去る木々の黒いシルエットの上に厚い雲に覆われた空が見えた。雲はところどころで切れていて、端は青白い光で縁取られていた。厚い雲の合間に時折見える空は、深い群青色をしていて、深海を覗いているようだった。あの雲の上には、満月と南十字星を抱く満天の星空があるに違いなかった。
 私は、サンパウロの叔父と亡くなった彼の母、つまり私の祖母のことを考えていた。叔父は昭和30年に単身で移民をし、ぶどう園を開くに至った。そして、それは1971年のことだった。ぶどう園の経営も何とか軌道に乗り、3人の子供たちにも恵まれ、生活にゆとりも出てきていた。折しもブラジルは奇跡と呼ばれるほどの経済成長を遂げ、クルゼイロの力も決して弱くはなかった。叔父は移民して16年目にして初めての訪日をすることに決めた。

 彼の父は、彼が移民する前にすでに故人となっていたが、母は健在だった。けれども、すでに70半ばを過ぎようとしており、彼としてもこの機を逃せば生きて再び母に会うことはできないだろうという思いもあったようだ。
 そして、忙しい作業の合間をぬってした旅の準備もすべて整い、出発をあと2週間に控えたある日、その不幸なできごとは起きた。大量の雹(ひょう)が降り、収穫前のぶどうを全滅させてしまったのだ。訪日は中止せざるをえなくなった。不運は重なり、その翌年、彼の母は亡くなった。それらのことで叔父は、以来訪日する意欲をなくしてしまったという。
 サンパウロを発つ前に叔父のぶどう園を訪ねたおり、私は複雑な思いで、たわわに実をつけたエメラルドグリーンに輝くイタリアぶどうの房を見つめた。

 叔父の家族が以前住んでいた家は、谷をはさんで町の端が見える高台の上にあり、庭には美しい水仙の花が咲いていた。栗の木の下には、ヴエズィーニョ(接吻)というかわいらしい花が一面に咲いていた。小さな蜂鳥が、ホバリングしながら花から花へと飛び回り、蜜を吸っていた。目を上げれば、ユーカリの木が天に届きそうなほど伸びやかにそびえ立っていた。
 葦の生い茂った湿原のある谷をはさんで反対側の斜面には、陽光を受けて青緑に輝くぶどう棚が広がっていた。ある暑い日の午後、谷の湿原脇の小道を日傘をさした美しい女性が、葦の葉に見え隠れしながらゆっくりと通り過ぎていった。街のほうから谷を渡る板道を、馬車がガラガラと下りてきた。私は、叔父の家の庭から見える牧歌的な風景がとても好きだった。
 夜になると空一面に大きな螢が群舞を始めた。夜の帳が訪れると、彼らは待ちかねたようにビュンビュンと舞い始め、南十字星の輝く満天の星空をキャンバスに、幾重にも、幾重にも、重なり合い現れては消える光の曲線を描き続けた。それは、私が知っている静かで、はかなげな光りかた、飛びかたをする日本の蛍とは、まったく違うものだった。彼らは日本の蛍よりもはるかに強い光を放ちながら高速で飛び回り、歓喜の舞を見せてくれた。奏でられる荘厳な光のシンフォニーは、いつまでたっても見飽きるということがなかった。
 叔父は、サトウキビから作ったブラジルの蒸留酒、ピンガが好きだった。熟成させるといいラム酒になるのだろうが、せっかちなブラジル人はその前に飲んでしまう。ポリタンクを持って酒屋に買いにいくと、おまけにコップ一杯のピンガをそそいでくれる。叔父はそれを一気に飲み干すと上機嫌で車を走らせたものだ。

 ある日、街の集会場で結婚披露宴があるので行こうということになった。知っている人なんですかと聞くと、いや知らないという。ここでは町の人の結婚披露宴には街中の人が来るのだそうだ。日が落ちて集会場に行くと、すでに大勢の人が集まり、ビールを飲んで大騒ぎだ。見ると、丘の向こうからは人を満載したトラックが次々とやってくる。新郎新婦の周りは、家族や親戚、友人だが、それ以外は誰の席もない。細長い板のテーブルに勝手に座ると、シュラスコやビール、ピンガがどんどん回ってくる。いつのまにか宴は始まっている。ヨーロッパ風の民族ダンスが始まる。宴はどんどん盛り上がっていった。
 しばらくして風に当たりに外に出る。日系の人たちが輪を作って盛り上がっている。叔父が私を紹介してくれる。アマゾンを放浪するんですと言うと、そりゃあすごいと言って、アマゾンがどれほどすごくて危険なところか次々と話しをしてくれる。でも、みんな行ったことがない…。
 私の口髭を見てある人が言った。セニョールはなかなかブラジルが分かっているね。ブラジルのセニョリータは髭の無い男は駄目だと言うんだ。あのとき気持ちがよくないってね。みんな一斉にガハハハと大笑いする。この夜、いったい何頭の牛と何本のビールとピンガが、みんなの胃の中に消えたのか、私には想像もつかなかった。

 私がまだ小さかったころ、叔父からは半年に一度ほどの割合で手紙が届いたが、実際にこの目で見たサン・ミゲル・ド・アルカンジョは、それを読んで父や祖母がしてくれた話から想像していた風景とは、実際似ても似つかぬものだった。彼らは、叔父がいるところは土地のやせた未開の山奥だと思っていたようだ。その当時、移民には計り知れない苦労という言葉が必ずセットになってついていた。そのようなことが、祖母や父のイメージの中に、暗いブラジルを描かせることになってしまったのだろうと思う。それほどに移民についての話は、辛酸辛苦をなめたというものが多かったということでもある。けれども、私の目の前に広がった風景は、余りにのどかで美しく、静かだった。
 町は緩やかな斜面の上に1キロ四方ほどの規則正しい四角を描いていた。町はずれにあるラジオアンテナの建つ小高い丘に登ると、それがよく分かった。ブラジルの町がどこでもそうであるように、町の中心には広場を抱いた教会の尖塔がそびえ建っていた。少しばかり視線を上げると、その向こうには、あおむけに寝た女性の乳房のように柔らかな曲線を描く丘が、幾重にも続いていた。丘の上には畑や牧場や森が連なり、美しいキルト模様を描き、その福よかな胸の連なりを優しく覆っていた。荒々しさのない穏やかな風景だった。この美しい風景を祖母にも見せてあげたかった。私はそう思った。きっと叔父も同じことを考えたに違いない、そうも思った。そんなことに思いをめぐらせているうちに、私は、走り続ける長距離バスの振動を子守歌に、いつしか眠りについていた。

 リオ・デ・ジャネイロがテレビなどで紹介されるときに、必ずといっていいほど出てくるポン・ジ・アスーカルという山がある。砂糖パンという意味だが、ちょうどムラータ(黒人に少し白人の血が入った混血)の娘の乳房のような砲弾型をしていて、リオの代表的な観光名所のひとつにもなっている。二日目の午前中、バスの車窓からは、それとよく似た岩山がいくつも見られた。頂き近くの少し傾斜の緩くなったところから頂上に向かって、まるで緑の帽子を被るように潅木が生えていた。それから下は、山の明るいグレーの岩肌が露出し、更にその下の山裾は、また緑に覆われていた。なんだか童話の世界に入り込んでしまったような、現実離れした不思議な風景だった。幾人もの巨人が緑色の帽子を被って地面から頭だけ出している。バスで彼らの間を走り抜ける私たちには、背を向けて素顔を見せてくれないけれども、夜になると地面から抜け出して、みんなで何処かへでかけていく。朝のまだうつらうつらした意識の中で、そんなことを想像してひとり楽しんでいた。
 午後になると風景は一変した。バスがパイーア州に入った頃だろうか、風景から緑がほとんど無くなってしまった。わずかにある潅木はすべて枯れるか枯れる寸前だった。サンパウロにいるときに既にテレビなどを通して知ってはいたが、このブラジルの北東部の内陸地帯は、この当時もう5年も雨が降っておらず、ひどいセッカ(早魅)に見舞われていた。道路沿いにいくつもの捨てられた家を見た。ほとんど廃村になった村もあった。かろうじて人が残っている家は、赤土ばかりの枯れた風景の中に赤や青の鮮やかな洗濯物があることでそれと分かる程度で、灼熱の陽光が容赦なく降り注ぐ屋外に人気は全くなかった。

 パイーア州やペルナンプーコ州のあるブラジル北東部は、ヨーロッパからの移住者が最初に住み着いたところである。当時、この辺りは古い絵にも描かれているように、緑が豊かに生い茂り、先住民が暮らす土地であった。ところが、それがブラジルという国名の由来にもなったパオ・ブラジルという木の切り出しや、サトウキビの栽培のための森林伐採などによって森は無くなり、僅かばかりの表土も流出し、やがて、この地方一帯は不毛の大地と化してしまった。現在、アマゾンの森林破壊が世界的な問題になっているが、アマゾンに入植している人々の多くが、このブラジル北東部の出身者であるのは歴史の皮肉というべきであろうか。
 しかし、歴史が繰り返すようなことになったのにはそれなりに理由があった。ここに住む人々は、本来砂漠の民ではない。砂漠で生きる高度な知恵と文化を持ったベドウィン族とは違うのだ。かといって、日系人のように土づくりから始めるような高度な農業技術も持ち合わせてはいなかった。搾取され続けた彼らは教育水準も低く、極貧と飢えに喘いだ。そんな彼らをブラジル政府は世界銀行からの融資を受けてアマゾンに送り込んだのだ。もちろん、アマゾンの森林破壊のすべてが彼らのせいというわけではない。多国籍企業や大牧場主が行う森林破壊の方がはるかに規模も大きく深刻な問題を投げかけている。それは、あなたが今日食べたハンバーガーかもしれないし、あなたが愛犬にあげたドッグフードかもしれないのだ。
 皮肉なことだが、現在アマゾンの熱帯雨林は、バイオテクノロジーの宝庫と見なされている。将来莫大な利益をもたらすかもしれないとブラジル政府は、気がついたのである。それが直接熱帯雨林の保護につながるかは疑問だが、熱帯雨林の減少は貴重な資源減少につながるわけで、以前のような無節操な破壊は減るかもしれない。しかし、別の意味で食い尽くされるかもしれない危険性をはらんでいるのも事実だ。
 ある先住民は、「自然は子や孫から借りたもの」というそうだが、環境破壊は子殺し孫殺しにつながるといえる。それは、無節操に開発が進み、里山のいたるところが産業廃棄物のゴミ捨て場になっている日本でも同じことが言えるだろう。

 バスは、丘をいくつも越えた。赤土の丘をいくつ越えても、また丘が続いていた。私の前の座席の老婆は、朝からずっと誰にとでもなくしゃべり続けていた。乗客は一応話を聞いてやるのだが、ほどなくうんざりしてしまう。すると彼女は今度は別の乗客を相手に話し始める。そうこうしているうちに話す相手がいなくなってしまい、そんなわけで誰も話を聞いてくれなくなってしまった老婆は、最後に私に目をつけたのだが、私が片言のポルトガル語しか解さないことを知ると、さっさと前を向きいったんは静かになったのだが、やがて誰にというわけでもなく話し始めたのだった。前日はとても静かな人だったのに。
 彼女が何についてしゃべっていたのかは最初は分からなかったが、彼女が私にもくれた一枚のしおりでだいたいのことが分かった。彼女は、自分が入っている宗教団体の勧誘をしていたのだった。ブラジルは、人種の紛うことなき柑禍であると同時に、世界中のあらゆる宗教の見本市会場でもあった。なんでもある。
 赤くただれた怪獣の喉のような赤土の切り通しをバスが抜けた時だった、右側に続く斜面に何軒かの朽ちた土壁と赤い瓦の小さな家が見えた。やはり人影は無かったが、庭に痩せこけた数匹の山羊がいた。そこから道路と平行に急な坂を下ったところに三角形の小さな谷があり、底は池になっていた。真っ黒なマッチ棒のような体をした男の子が3人、すっ裸で交互にその池に飛び込んだ。おそらくその村の唯一の水源でもあろうその水は、藻が繁殖して深緑色をしていた。子供たちの無邪気さは救いだったが、いずれこの村もそう早くない将来に誰もいなくなるだろうと思われた。

 昼過ぎ、あるランショネッチにバスは入った。バスを降りて前に回ると、目の前に生成り色をした大きなこぶ牛がいた。それを避けて行こうとすると、大きな黒い豚が現れた。手に手にバナナやオレンジの入ったかごを抱えた女や子供たちが次々にまとわりついてきた。おこぽれを狙って、痩せこけた犬やひよこを連れたにわとりも足元にいた。両足の無い男が両腕と胴を使って起用にランショネッチの中を動き回り、乗客から施しを受けていた。家を捨ててこれから都会に出るのだろうか、裸足で粗末な身なりをした家族がバスを待っていた。彼等の表情は不安に満ちていた。時折彼らが不安に満ちた目で見上げる空は、どこまでもどこまでも青く、底が無いように見えた。
 サンパウロやリオ・デ・ジャネイロとパイーア州やベルナンプーコ州を結ぶこの幹線道路は、ブラジルの流通を促進し経済を活性化させるために造られたのであるが、実際は皮肉にも早魅や貧困を逃れて都会に出て行く人々の、移動の道になってしまったという。
 ランショネッチの喧騒を離れて道路に出てみた。ほとんど砂漠に近い荒野に、アスファルトの道がうねるように伸びていた。逃げ水が遠くに見えた。貧困や早魅を逃れて都会に出て行く彼らの将来が、逃げ水を追い続けるような日々の連続になるだろうことは想像に難く無かった。太陽の暴力から逃れた彼等を待っているのは、都会の暴力、人間の暴力だろう。そして貧困は、どこに行っても彼らにつきまとい離れないに違いない。
 しばしの休息の後、バスは再び走りだした。道路脇には両側にそれぞれ道路と同じぐらいの幅の空き地が続き、その空き地に沿って鉄条網が続いていた。その鉄条網が何のためにあるのか、はっきりとは分からなかったが、おそらく家畜がそこから出ないようにするためのものだろうと思われた。けれども、鉄条網の外で四肢を空に向かって突き上げ、腹部が腐敗のためにパンパンにふくれた牛の死体を見た以外は、フェンスの外にも中にも一匹の家畜も見ることはできなかった。
 夕暮れも迫ったころ、道路脇の空き地でキャンプする親子を見た。父親とその息子2人だろうと思われる3人は、道路沿いの一本の枯れ木にヘージ(ハンモック)を張り、夕げの支度をしていた。といっても小さな鍋がひとつ見えただけだった。彼らは、破れた土色のTシャツを着、破れた紺色のジョギングパンツを履いていた。彼らは裸足だった。傍らに麻袋が転がっていた。それ以外は何も無かった。私たちのバスが通ると、三人はバスを見つめた。一瞬ではあったがどの目にも表情が無いように見えた。彼らもきっと都会に出て行くところに違いなかった。けれども、おそらく彼らにはバス代など無いのだ。幾日かかっても、彼らは自分の足で歩いて行くより方法が無い。
 彼らがどんな思いで通りすぎるバスを見つめたか、エアコンの効いたバスに乗っている私には分かるすべも無かった。あっという間に彼らは小さくなった。

 誰かに揺り動かされて、私は目覚めた、一瞬、私は自分がどこにいるのか思い出せなかった。オレンジ色の小さな灯りを背に女性のシルエットが見えた。私を揺り起こしたのが彼女であるのは間違いなかった。
 私は倒したリクライニングシートからゆっくりと体を起こした。すると彼女は待っていたように早口でしゃべり始めた。寝起きのポルトガル語が、子守歌のように聞こえた。が、彼女が「インテンジ?(分かる?)」と言ったところで薄ぽけていた頭が目覚めた。彼女の言った「分かる?」だけが分かったのだ。そして彼女が、私の斜め前に座っていた、小さな赤ん坊を連れたムラータの美しい女性であることも思い出した。バスに乗り合わせた女性たちは示し合わせたかのように皆そうしていたが、彼女も髪にカーラーを巻き、白にグリーンのストライプの入ったスカーフをしていた。ミントグリーンのTシャツとスリムなジーンズが似合っていた。
 昼間は連れの赤ん坊に常に気を払いながら、ずっと誰かに宛てて手紙を書いていた。知的な美しい人だと私は思っていた。
 彼女は念を押すように再び言った。
「インテンジ?」
 もちろん、私ははっきりとこう言った。
「ノー・インテンド(分かりません)」
 彼女はひどく落胆した様子で腕組みをして考え込んでしまった。いったい何が起きたのか皆目見当がつかなかった。私は身を乗り出しバスの中を見渡した。乗っていたはずの乗客は、私と彼女の二人を除いて誰もいなかった。彼女が連れていたはずの赤ん坊さえ見えなかった。窓から外の様子をうかがうと、四方とも真っ暗だった。いったい何が起きたのだろう。みんなどこへ行ってしまったのだろう。
 トロンバ(強盗)に襲われたのだろうか。いや、そんなことはあり得ない。そんな騒ぎがあれば、私だって起きるに決まっている。ブラジルはUFOがよく目撃される。みんな宇宙人に連れ去られたのだろうか。それとも逆に私たちだけがどこかに連れ去られたのだろうか、とするとこれから私は彼女と二人で生きていかなければならないのか、う〜むそれも運命ならしょうがない。私は誇大妄想狂になっていた。馬鹿なことを考えている場合じゃない。落ち着かなければ。私は彼女を見上げた。おそらくひどく困惑した眼差しで…。

 彼女は、そんな私を見て哀れに思ったのか、気をとり直してまた何か説明をし始めた。しかし、分からないものはどんなに神経を集中し耳を澄ませたところで分からない。私はこの旅で、初めて自分が情けないと思った。彼女が何度も丁寧に話せば話すほど、私は奈落の底へと落ちていく思いだった。「馬の耳に念仏」ということわざが脳裏に浮かんだ。相手の言っていることがまったく分からないというのは、実に情けないことだった。
 やがて私たちは二人とも本当に途方に暮れてしまった。私は猛獣が闊歩するアフリカのサバンナに突然放たれた飼い猫のような気分だった。そんな時だった。一人の老女がバスに乗り込んできた。彼女もやはりこのバスの乗客の一人だった。私は少しほっとした。いや、ほっとしたのはムラータの彼女の方だったかもしれない。いぶかる老女に向かって彼女は事の次第を話し始めた。一通り彼女の話を聞くと老女は、まかせておきなさいという風にうなずいて私の方に近づいて来た。どうするんだろうと思っていると、彼女はゆっくりと、はっきりと、きっぱりと、大きな声でこう言った。
「サイーダ。トロッカ・ジ・オニプス!(降りて。バスを取り替えるの!)」
「スィン!(はい!)」彼女の迫力に、私はとっさにそう応えてしまった。けれども、ちゃんと意味も分かっていた。サイーダは、入口出口の表示で、トロッカは両替した時に覚えた。意味が分かったことが、私はとても嬉しかった。
 私は精一杯の感謝を微笑みに込めて「オブリガード(ありがとう)」と彼女達に言った。ムラータの女性は、見れば一人旅のようだけど、言葉もろくに話せないで大丈夫なのかしらこの人、と言いたげな表情で微笑んだ。
 彼女たちに習って、私も手荷物とブランケットと枕を手にバスを降りた。そこはどうやらある建物の裏手の空き地のようだった。彼女たちについてその建物の表に回ると、私達の新しいバスがそこにあった。ほかの乗客たちは既に全員乗り込んでいて、手荷物を閉まったり、ブランケットを整えたりしていた。時計を見ると、既に夜中の三時を回っていた。
 ムラ−夕の女性は、赤ん坊を先に置いて手荷物を取りにもどってきた時に、熟睡している私を発見したのだろう。いずれにしても、バスは出発する時に必ず人数を確認するので置いていかれるということは無いだろうが、そこはブラジル、何があるか分からない。彼女に助けられたことには違いなかった。そういえば、と私は思った。タベから前のバスは幾度となく変だった。夕食に寄ったターミナルではエンジンがかからなくなり、大勢の人に押してもらってエンジンをかけ出発した。次の所では二時間ほど止まり修理に時間を費やしたのだが結局直らず、また人に押してもらってエンジンをかけたのだった。バスのエンジンを押しがけするなんて私は初めて見た。
 やがて乗務員が乗り込んできて、全員が乗ったことを確認すると、バスは闇夜の中に再び走り出した。

 私は、しばらく寝つかれずにいた。やがてバスは渋滞の列に入った。やはり寝つかれずにいたのだろう何人かの乗客とともに私が目にしたのは、ものの見事に真っ逆さまにひっくり返った大型トラックだった。おそらく居択り運転か何かでハンドル操作を誤ってS字にハンドルを切りローリングしてひっくり返ったのだろう。哀れな運転手は、どうしたのだろう、どこにも見えなかった。
 再び闇と静けさが戻ると、私はいつしか眠りについていた。夜が明ければいよいよレシーフェの街だ。
 ところが、レシーフェの神様は、私達をそう簡単には受け入れてくれなかった。夜が明け日が昇ると、私達乗客は夕べの騒ぎでろくに寝ていないにも関わらず、ひどい蒸し暑さでほとんどの人が起きてしまった。こんどはエアコンが壊れたらしい。やれやれ。
 バスは潅木の茂る切通しの手前で路肩に止まった。運転手が後ろに回りエンジンフードを開けた。長いバスの旅に疲れの見えた乗客たちも、暑い車内にはとてもいられないと、次々に降りた。
 熱帯の強く黄色い朝日が、荒れ地の遙か向こうの地平線に昇っていた。薮に入って子供に用をたさせる人、眠そうに伸びをする人、運転手の所へ行って一緒にエンジンルームに首を突っ込む人。しばらくして反対側から同じ会社のバスが来たが、運転手どうししばらく話すとそのバスは行ってしまった。そして、そこには30分ほど止まったが、ブラジルのことがほんの少しは分かってきた私が思ったとうりエアコンは直らず、バスは天井にあるほとんど役に立ちそうに無い小さな換気孔を開けて走ることになった。窓が開いたら、さぞ気持ちが良かっただろうが、そのバスは窓が開かなかった。
 バスは海岸山脈の高地から一気に海岸平野へと下って行った。空気は徐々に熱くなり、湿り気を帯びてきた。大きな椰子の木がそこここで目に入るようになってきた。途中、またひっくり返ったトラックを見た。やがて日本の夏の水田地帯を思わせるなつかしい風景が目の前に広がった。それは、辺り一面に広がるサトウキビの畑だった。バスはひた走り、半日ほどもその風景は続いた。二泊三日、50時間のバスの旅も、ようやくゴールが見えてきた。そして、その日の午後4時過ぎバスは予定より3時間ほど遅れてレシーフェの、ホドビアーリア(バスターミナル)に着いた。たいていの乗客はクレームをつけに事務所に押しかけたが、私の心はすでにレシーフェの街に向いていた。
 さあブラジル一人旅の本当の一歩がこの街から始まる。



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