天空のラパス、神秘のチチカカ、湿原のトリニダッド
■ラパス LA PAZ (ボリビア)
 富士山の頂上とほぼ同じ高さにその百万都市はある。旅客機のタラップを降りた瞬間からとにかく息苦しい。深呼吸をしても酸素が入ってこない。酸素が少ないから火事も起きない。おまけに傾いたすり鉢状になったラパスの街は、平らなところがひとつもない。昼飯を食べに街に出かけてホテルに戻るのにも、急な坂道を登らなければならない。私の横をインディヘナ(先住民)の子供たちが駆け上がってゆく。背中を見送りながら立ち止まって大きく息をつく。関節が痛い。80歳の老人になったような気がした。
               
 ある日の夕方、緩やかに曲りながら登る石畳の道を行くと、薄暗い中に黒い陰が、いくつもうずくまっているのが見えた。壁際にインディヘナの婦人と小さな女の子がいた。彼女たちの周りには、いくつかの布で巻かれた寸胴があって、中には真っ赤なスープや、リャマの肉だろうか、小さな肉団子などが入っていた。その周りでは男たちがうずくまって、黙々と皿のものをかきこんでいた。
 その時、彼女と目があった。彼女は、いきなり皿を突き出すと手を口に運び、食べるか?という仕草をした。私はとっさに首を縦に振ってしまった。
 私の前にいた男が、食べ終わって皿を彼女に返し立ち去った。彼女は、その皿を真っ赤なスープの寸胴に浸けた。ん? 二、三回揺すると取り出して、真っ黒なタオルでその皿を拭った。なっ、なんてこったい! スープだと思っていたその寸胴は、皿を洗うバケツだったのだ。
 彼女は、買ったときは白かっただろうホーローのその皿にご飯をよそい、肉団子を4個程とタマネギのスライスを乗せ、なにやら赤いスープをその上にかけた。そして、買ったときは白かっただろう今は黒いタオルでフォークを拭い、皿と一緒に無表情で私に差し出した。

 私はそれを受け取り、小さな女の子の隣の壁際に座り込んだ。当惑した顔で彼女を見ると、紫色にあかぎれした頬をふくらませてニーッと笑った。こういうのを食べると肝炎になったりするんだろうな、と思ったが食べることにした。食べ物を粗末にしちゃいけないしね。私と同じ一般庶民がなにを食べているか知るのも大切なことだ。
 けれども、なにせ標高が富士山と同じだ。ご飯は割れてパサパサだし、赤いソースのかかった肉団子は、今までに口にしたことのない不思議な味だった。それでも全部たいらげて彼女に皿を戻すと、恥ずかしそうに少し微笑んだ。厳しいところだ、と思った。ホテルへの道すがら葬儀屋の前を通ると、カラフルな大人の棺桶に混じって、小さな棺桶がいっぱい置いてあった。

 後日、日本大使館近くのペンション・スキヤキに宿を移した。そこで知り合った日本人旅行者3人とちょっと奮発して、五つ星ホテルの最上階にある展望レストランに行ったことがある。一応ちゃんとした格好をして。レストランの窓からは、ラパスの夜景が一望できた。すり鉢状の街に家々の明かりが灯り、まるでクリスマスツリーのイルミネーションの中に入ったようだった。私たちはせっかくだからとボリビアの郷土料理を頼んだ。タキシードを着たギャルソンがうやうやしくサーブしてくれた。その中の一品は見覚えのあるものだった。味も屋台のそれとほとんど同じだった。
 実は、私たちが食べている野菜や穀物には、アンデス原産のものが多い。ジャガイモ、トウモロコシ、カボチャ、唐辛子、ピーナッツ。市場に行くと、日本では目にすることのできないたくさんの種類のジャガイモやトウモロコシを見ることができる。中には原種に近い物もある。品種改良された野菜に慣れた舌には、あまりに素朴な味だが、それが滋味というものだろう。
 他には、近年注目されているキヌアやアマランサスなどの雑穀類がある。キヌアはペルー、ボリビア、エクアドル、チリ北部の標高2500〜4000mのアンデス山系で栽培されている穀物で、アワやキビに外見は似ているが、同類の穀物の中でも特に栄養価が高く、21世紀の主食ともいわれている。わが家では、ご飯を炊くときに、必ずこれらの雑穀を入れている。
 さらにヤーコン。ヤーコンは南アンデス原産のキク科の植物で、味は梨とレンコンの中間、香りは少しウドに似ている。ミネラル豊富なアルカリ性食品で、ポリフェノ―ルはワインに匹敵するそうだ。アンデスは侮れない。

 ラパスの高さにようやく体が慣れた頃、ラパスの夏祭り、ラス・アラシタスが始まった。車や家、食べ物からお金まで、なんでも小さいおもちゃにして売っている。欲しい物のミニチュアを買って、いずれ本物が手に入ることを願うという、かわいくて少しもの悲しいお祭りだ。起源は、アイマラ族の豊作の神、エケコ信仰にあるという。
 箱を覗くと中でコマ落としのアニメが動くシネパナビジョン。髑髏を置いて占う怪しげな老婆。豚の足や鶏を焼く香ばしい匂い。子どもへの土産だろうか、小脇に粗末なブリキのおもちゃを抱え、ぐでんぐでんに酔っぱらって歩く親父。見せ物小屋、サーカス、埃くさい臭い。テキ屋の呼び込み、裸電球、拡声器から流れる割れた音楽。まるでモノクロ映画で見た昭和30年代の田舎の博覧会のようだ。
          
 ある日、同じペンションにいたK君に、アーチャの工房にケーナを買いに行くんだけど一緒に行かないかと聞かれた。興味があったのでついていった。物静かな工房の主は、丁寧に応対してくれた。大きなテーブルの上には、作りかけのチャランゴが万力に挟んであった。作りかけのケーナが何本もあった。K君は竹ではなく、木をくり抜いたケーナを買った。
 チャランゴの制作も見せてもらった。一本の木からチャランゴの本体を削りだし、ある特別な液体に三ヶ月浸けるという。それから細かな細工やネックを付けたりするのだそうだ。元の木の材質によってチャランゴのランクも変わるということだった。アルマジロの皮を張ったモノが有名だが、音自体は良くないということだった。
 確か現在は、ワシントン条約で製造も輸入も禁止されているはずだ。
 帰りの道すがらK君は、買ったばかりのケーナを吹きながら歩いた。柔らかなケーナの美しい響きが、暮れなずむラパスの街にやさしく浸みていった。子どもたちが、見慣れぬ外国人が上手にケーナを吹きながら歩くのを不思議な表情で見送った。途中、宿までの道をショートカットして高い針葉樹の森の中を下った。切り株に老人が座り、じっと夕影を見ていた。

 ラパスの街を歩き回っていたある時、急に大雨になった。私は街の中心にあるサンフランシスコ教会の大きな扉のくぼみに身を隠して雨をしのいだ。隣にはインディヘナの女性がいて、入り口の段差に腰をかけ、豊満な乳房を引っ張り出し、布に包まれた赤ん坊に乳をやりはじめた。なんだか昔見たような懐かしい光景だった。
 帰りに豚の足を挟んだハンバーガーを買った。豚の足はてっきり薄くスライスしてくれるものと思っていたら、縦に半分に割ったものを、そのままパンに挟んでくれた。爪が二つついていて、毛も生えていた。昔パリで、煮た豚足をゼリー寄せにしたものをデリカテッセンで買ったことがある。美味しかった。横浜中華街の関帝廟の向かいの小路を入ったところにある「徳記」のトロトロに煮込まれた豚足も大好きだが、いずれも毛は生えていない。ホテルの部屋に帰ると、私はまず豚足の毛を抜く作業を始めなければ夕食にありつくことができなかった。味は悪くなかったが、全部食べきるほど美味くもなかった。
 食いしん坊な私は、市場に出かけ山羊のチーズや、クイ(モルモット)の揚げもの、ジャガイモの天然フリーズドライ食品ともいうべきチューニョのスープ、アルパカだかリャマだか分からない干し肉など、ありとあらゆるものを食べてみた。ビタミン不足になってはいけないと、毎朝屋台でフルーツとニンジンを牛乳でシェイクしたジュースを飲んだ。
 ビニール張りのテントのレストランでは、田舎から出てきたと思われる親子といっしょに、何の肉だか分からないハンバーグを食べた。ブラジルの塩辛い料理に慣れた舌には、塩分が薄く感じる。スパイスを利かせた料理や、激辛のロコトソースをつけて食べる料理もあるが、たいていは驚くほど素材の味がそのままの素朴な料理だ。


日向ぼっこが大好き。けれど紫外線はかなり強い。
 
肉の焼けるいい匂い。アラシッタスの賑わい。

カラカラと回る除きシネマ。
カメラを向けたらお母さんが子供を抱いて逃げた。
 
各部族の帽子のミニチュアセット。帽子の種類で部族が分かるらしい。

豚足を煮るいい匂いがする。
 
小さなおもちゃの家具を売っている。

建てて天に至る。
 
ラス・アラシタスで買った小さなスパイスセット。
小さなチョリソーやハンバーグも売っていて可笑しい。
おもちゃのお金は、ちょっとさみしい。

■チチカカ TITICACA(ボリビア)
 南米の教会の研究をしているという日本人の大学の先生と知り合った。タクシー代を5分の1だけ払ってくれればいいから一緒に行かないかということで、チチカカ湖の聖地、コパカバーナまで日帰りで行くことになった。チチカカ湖までは約160キロ。4000メートル以上の高地を、一日中走り続けられる車でなければならない。故障して立ち往生したら悲惨なことになる。
 私たちがチャーターしたのは、古い日産のサニーだった。私たちは日本車の性能に賭け、ラパスの上に広がる大平原をチチカカ湖目指して走り始めた。ある橋にさしかかると、インディヘナたちがデモをしていて通れない。迂回路は無さそうだし、どうするのかと思っていると、運転手は浅いところを探して車で渡るという。川幅は30m位はある。川に入るとき運転手は十字を切った。5分後、私たちは日本の技術力に感謝した。
 ギアを入れ、だんだん上げてゆき、トップギアにする。アクセルはふかしっぱなしなのに、しばらくするとスピードが徐々に落ちてきて、歩くほどの速度になってしまう。するとまた、ファーストギアから入れ直す。その繰り返しが延々と続く。どうにも空気が薄いのだ。
 途中、チチカカ湖畔のバルサ・デ・トトラという葦舟の飾ってある、どう見てもバラックにしか見えないレストランに寄った。あるのは名物だというマスのソテーの定食だけ。大きな皿にマスのソテー、フライドポテト、ミックスベジタブルにサラダとライスがのってきた。かなりのボリュームだったが、ペロリと平らげた。マスは、元々この湖にはいない魚で、北米からもってきて養殖した後、放流されて増えたものだそうだ。条件が合うのか1メートル以上にも育つそうだ。

 チチカカ湖の畔にでて、フェリーに乗る。遠くの島が浮かんで見える。蜃気楼だ。水をすくってなめる、ほんのり塩辛い。波はほとんどなくて穏やかな湖だ。この湖底にはいったいどれほどの遺跡が眠っているのだろう。
 チチカカ湖には、海がないのにボリビアの海軍が駐留している。その昔、大西洋まで領土があった頃を懐かしむように、小さな軍艦が手持ちぶさたに浮かんでいた。
 フェリーを降りると再び車は高度を上げる。下は、湖までインカ時代のかなり急な段々畑になっている。今は使われていない。未舗装の道路にはガードレールもなく、カーブにさしかかると、十字架がいくつも立っている。酒瓶を持った酔っぱらいの親爺が、わめきながら石を投げながらタクシーを追いかけてきた。

 目的のチチカカ湖に近づいた頃、谷の向こうの斜面に、数十頭のリャマをつれた少女がいた。私たちは車を止めてもらい写真を撮った。彼女は歩みを止め、慣れた様子でポーズを取り微笑んだ。その時だった。彼女は、ものすごいスピードで山を下り、谷を越え、坂を駆け上がってきた。そして私たちの前に立つと、たいして息を切らす様子もなく、にっこり笑って手を差し出した。モデル料をよこせというのだ。なにがしかのお金を渡すと、彼女はあっという間にリャマの元へ帰った。
               
 コパカバーナの教会は、不思議なものだった。外見はイスラム風のタイル建築、あるいはガウディーの建築のようでもあった。しかし内装は、南米によくあるトロピカルバロック様式。風雲急を告げる空模様の中で、奇妙なコントラストを描いていた。中ではちょうど結婚式が行われていて、厳かに賛美歌が響いていた。
 ラパスに着く頃にはすっかり日が落ちてしまった。大平原は漆黒の闇に沈み、空は深いプルシャンブルーで、星も瞬いていた。他の惑星上を走っているような錯覚がした。その時だった。前方の地平線が薄い円盤状に発光していた。地中から不思議な光が空に向かって放たれている。漆黒の闇、プルシャンブルーの空、大きく瞬く星くず。S F 映画のワンシーンの様だった。
 あれは? と私が聞いた。
 得意そうに運転手が応えた。「La Paz!」。


鏡面のように光るチチカカ湖が見えた。
 
湖畔の小さな村は、桃源郷のように見えた。

舟になり、食料になり、島と家にもなる万能植物トトラ。
 
聖地コパカバーナが見えた。

楽しそうな母子。
 
それにしても不思議なデザインだ。

水があると、それだけで豊かに見える。
 
ラパスに戻ったのは夜のとばりが降りてから。天空の都市に灯りが灯る。

■トリニダッド TORINIDAD(ボリビア)
 トリニダッドは、アマゾン河支流のマデイラ河支流のマモレ河支流、イバレ川沿いにある、海抜300メートルほどの町だ。モホス大平原といわれるアマゾン水系の大湿原のまっただ中にある小さな町で、観光資源も特にないが、こんな辺境にまで日系人の移民は入っていて、町には四世や五世もいるということだが、混血が進んでしまって外見ではほとんど分からない。このモホス大平原は、近年古代アマゾン文明と思われる遺跡が発見され話題となっている。
              
 1899年、南米への日本人移民船第一号船「佐倉丸」が790人の男性を乗せ横浜港からペルーに向けて出向した。長い航海の末、ペルーに無事に辿り着いたが、移民達は、重労働、低賃金といった奴隷扱いをされたという。その後、アマゾン河流域はゴム景気を向え、新たなる新天地を求めて、着の身着のままアンデス山脈を越え、アマゾン河をいかだで下り、トリニダッドより500キロほど北にあるリベラルタという小さな町にたどり着いた。この地で懸命に働き財を築いたが、第2次世界大戦が勃発し、連合軍についていたボリビア政府は日本人の財産を没収し、日本人を収容所へ入れたそうだ。戦後、リベラルタの日系人は完全に原住民の中に入って生活をしていたという。トウキョウ、ヨコハマなんて地名もあると聞いた。ブラジル移民の陰で注目されることの少ないボリビア移民だが、政情と経済の安定しないこの国での暮らしは、さぞ大変なものだったろうと思われる。

 私はトリニダッドに、縁あって鹿児島出身の青年と訪れることになった。町の対角線に向かって滑走路がある。インディヘナのおばちゃんが、鶏を抱いてプロペラ機に乗り込んでくるような飛行場だ。
 ここではインディヘナの女性たちも、普通のワンピースやTシャツにスカートだ。街には女性が多い。聞くと人口の3分の2が女性だそうだ。スペイン系の美人が多い。どうして女性が多いのか聞いたが、水質のせいかもしれないというぐらいで、確たる答えは返ってこなかった。
 町の中心には南米の町がどこでもそうであるようにカテドラルがあり、その前には椰子の木が茂った一辺が100メートルほどの正方形の広場がある。
 静かな町だったが、一日に四度だけものすごい喧騒と砂埃に包まれた。朝の通勤時と昼食をとりに家に行き来する時間、そして帰宅の時間、ものすごい数のバイクが町を走り回る。さらに夕食後の時間になると、若者たちがバイクで広場の周りを左回りにグルグルと回り始める。彼女を乗せて、女の子同士で、ナンパ目的で男たちが、とにかくグルグルと回り続ける。誰もヘルメットなんか被っていない。
 日に焼けた親父が若い娘を後ろに乗せて走っている様をよく見かけ、不思議に思っていたら、それはタクシーなんだと分かった。とにかく町を一歩出ると大湿原なので、バイクも車もオフロード、四輪駆動が多い。本物なのかベンツの六輪駆動なんていう珍しい車も走っている。可愛いお姉さんが、ミニスカートでオフロードバイクにまたがっているのを見たときは、目がつぶれそうになった。
 喧騒の時間が過ぎると町は静寂の淵に沈む。

 町はずれに川があって、粗末なハウスボートがいくつも浮かんでいる。その一軒の家族と知り合いになった。きしむはしごを登って二階に行くと、板とビニールで囲われた中にダブルベッドが置いてあった。片腕のない親父と年頃の息子と娘がいた。気さくな親父だった。翌日再び訪れると、親父が息子をボコボコに殴っていた。息子は泣きながら謝っている。聞くと、息子が夕べ小舟を売り払って友達と飲みに行ってしまったのだという。信じがたい話だったが、親父のキレ方をみると本当らしい。
 川沿いには、屋根を椰子の葉でふいた粗末な家が並び、市が開かれ賑わっている。人々は泥の川で水浴や洗濯をし、一日を過ごす。
               
 決して豊かな町ではなかったが、これ以上ないほどのんびりしていて気持ちがよかった。ある夜のこと、ホテイアオイがぎっしりと浮かんでいる池の端に行くと、大勢の人が夕涼みをしていた。ある方向に向かって歩いていくので付いていくと、小さなスタジアムに行き着いた。入口の前には大勢の人が群がっていた。聞くと、中でコンサートがあるという。ダフ屋の男がチケットを売っていたので買う。400ペソだったが、本当は200ペソらしい。ごった返している入口から、人混みをかき分けて中に入ろうと係員にチケットを渡す。鉄格子が開かれて中に入ろうとすると、チケットを持っていないやつが、どさくさに紛れて何人も一緒にドドドーッと入ってしまった。これには笑った。
 フットサルコートがある小さなスタジアムは満員だった。ほどなくショーが始まった。レコードに合わせて踊るダンサー。ソンブレロをかぶって漫談をする芸人。その後に出てきたトリオの演奏はすばらしかった。見上げると満月の空。涼しい風が気持ちよかった。観客は可笑しいと笑い、つまらないとザワザワする。11時頃お開きとなったが、とても楽しい夜だった。

 市場にはレストランもあったが、どうにも旨くない。その近くに華僑がやっている中華料理店を見つけた。裸電球の下がった中庭のあちこちに、テーブルと椅子が無造作に置いてあるだけだが繁盛していた。ある日、夕食を食べに訪れた。漆黒の空には南十字星が瞬き、ものすごい数の螢が音もなくビュンビュンと空を飛び回る。こんな野外レストランはいくら金をつぎ込んでも東京ではできない。
 中庭の真ん中に崩れかかった土壁の小さな小屋があり、それが厨房だった。中からはコークスの燃えるゴーッという音と鍋を振る威勢のいい音が響き、何ともいい香りが流れてくる。五目野菜炒めに薄い卵焼きの乗ったチャプスイと、香ばしいチャーハン、ビールなどを頼んだ。美味かった。忘れられないディナーとなった。
 食事を終え、螢の飛び交う空の下を、ほろ酔い気分でセントロの安宿に戻る。人気のない街角の闇にチェ・ゲバラの幻影を見た様な気がした。

 街の郊外に、日本のODAで建てられた病院があった。その管理のために駐在していた日本人と、ラパスの日本人経営のペンションで知り合った。そのことが、まず日本人観光客は行かないトリニダッドを訪れるきっかけにもなった。
 町を訪れた日の夕食に、郊外の焼き肉レストランに連れて行ってもらった。ブラジルでいうシュラスカリヤだ。椰子の葉で拭いた四阿の並ぶ中庭で、大きな串に刺さって焼かれた肉が次々に運ばれてくる。ヒレ肉やロースを食べ、箸休めに出てくるのが鶏肉やソーセージだ。私は、それまでの人生で最高の量の肉を食べた。
               
 ある日ホテルに彼らが現れ、誘われて郊外に釣りに行くことになった。私たちが訪れるまで、街は連日の豪雨に見舞われていたそうで、道路は20センチもの泥で埋まっていた。そのため、町から2キロ行ったところで、とある牧場にバイクをあずけ、轍を選んで炎天下を4キロも歩くはめになった。
 やっと着いた釣り場で、私たちは牛ロースを餌にピラニア釣りを楽しんだ。私が投げるとすぐにアタリが来て赤いピラニアが釣れた。ピラーニャ・ベルメーリョという一番どう猛なやつだ。他にはサルジーニャとかナマズがかかった。楽しかったが、灼熱の太陽が痛かった。大湿原の中での優雅な釣りの時間は、夕方、ゴボッという音とともに終わりを告げた。アマゾンカワイルカが現れたのだ。彼らが出現すると、他の魚たちはみな逃げてしまうのだそうだ。日も傾いてきた。私たちは街に帰ることにした。

 帰り支度を始めると、橋の向こうから牛車を引いた家族がやってきた。彼らは牛車を止め、ピラニアのいる川に入って水浴びを始めた。50キロも遠くの村から来たのだそうだ。今日はここに泊まり、明日街に入ると言っていた。
 私たちは彼らに釣った魚を全部あげた。彼らはとても喜んだが、同時にとても不思議そうな表情をした。食べるために釣るという以外の釣りがあることなど彼らには想像もつかないことなのだろうと思った。手を振って分かれると、子どもたちは私たちが小さくなるまで、夕日の中でずっと見送っていた。
 帰りの道はきつかった。水もなくなりのどはカラカラだった。街がひどく遠く思えた。そんな時だった。幸運にもジープが通りかかった。私たちは後ろの幌付きの荷台に乗せてもらった。
 荷台には、先住民の子供と爺さんがいた。蒸し暑くて酷い臭いで、おまけに轍にハンドルを取られて、車は右に左に滑りまくった。酔いそうだったが、歩くよりはずっとましだった。私たちは親切な運転手に感謝し、町はずれのレストランで降ろしてもらった。
 地平線に沈む夕日を見ながら、そこで飲んだ生ビールは、それまでの人生で3本指に入る旨さだった。

 ある日、投宿していた安ホテルの親爺が気むずかしい表情で、君たちはイミグレーションに出頭しなければいけないと言ってきた。行く必要はないはずだ。どうも要領を得ない。ただ、なぜだろうと考えると思い当たる節もあった。
 駐在員のSさんが2度ほどホテルを訪ねてきたが、アタッシュケースを持ち、黒いサングラスをかけていた。どう見ても香港マフィアのようだった。私たちを辺境から密入国した麻薬の運び屋と思ったのかもしれない。とにかく、その日の午後にはラパスに戻る予定だったので、それを伝え取り合わないことにした。私たちは大笑いしたが、一歩間違えば大変なことになるところだった。


古い物、新しい物が混在している街。4WDと馬車。
 
うらやましいというか、危なっかしいというか。

ベニ地方は美人が多いらしい。
 
母と子、どこか懐かしい光景。

水と空と湿地。それしかない。一番きれいなのは雨水。二番目は川の水。三番目が水道水だと言われた。
 
この水は大湿原を流れ、やがてアマゾンを経て大西洋へそそぐ。
大きな空の下での釣りは楽しかった。

町外れの川。遊びも入浴も洗濯も、すべてこの川で済ませてしまう。
 
川縁の土手では商売も行われる。

洗濯と一緒に水浴びをする女性。
 
遠くの村から舟がやってきた。

シエスタの時間、街は静まりかえる。

空港のターミナルはバラック。インディオのおばちゃんが長靴で727に乗ってくる。
 
360度地平線なので、いつまでも空は明るいけれど、街は闇の底。

大湿原のまっただ中、自由に流れる川のほとりにその街はある。

●CONTENTS
はじめに、そして最後に 息子達へ、ブラジルの友へ
サンパウロからレシーフェ
ブラジル・レシーフェ
オリンダ
レシーフェからベレンへ
アマゾン・ベレン
アマゾン・マナウス
アマゾン・サンタレン
ブラジル・リオデジャネイロ
ブラジル・サルバドール
ボリビア
ノルウェー

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文・写真:HAYASHI Moriyuki
 
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